2010年01月19日

2009年9月後半

四日市から、JRで神戸まで。
神戸の三宮の改札口で眞城一家が待っていてくれた。眞城佳奈さんは神戸に行くと必ず私の細々としたことをパッパとスピディーに支えてくれる。ずっと年下なのに、、そしてゆうすけ&だいきの兄弟も友達みたいになってしまっている。。。
この夜は三宮「ラストワルツ」。春にもお邪魔した小さなお店だけれど、中身が濃い!とてつもなく音楽に詳しい人達、詳しいと言うよりダイスキな人達が集まるのだ。私が知らないアーティストの話でみんな盛り上がっていて、でも
来年の「ジャクソン・ブラウン&シェリル・クロウ行く?とかディランはどうしよ?」なんて、三宮という繁華街の飲み屋さんビルの4階で大人たちがそういう話と美味しいお酒を夜な夜な飲んでいるのだ。
私はこの店ではノーマイクで唄う。この夜は10月にレイチェルと神戸で唄うから、皆さんに「来てね」という宣伝もいっぱいしてしまった。
10人でいっぱいになってしまうお店だけれど、カヴァーの曲も数曲入れて、ゆったりと唄わせてもらった。みんなと10月に再会を約束して眞城家にて10月のライヴの打ち合わせなどしながら休ませてもらう。

翌日は大阪、またまた新快速で平田ママ(みんながママと呼ぶ。)でもそれはとても元気でみんなのお母さんみたいに面倒見がいいからで、今回も夏に京都に行った時にこの枚方の「MogajogaDinning」というお店で唄わせてもらえるように、やはり枚方で御世話になっているNご夫妻と尽力してくださる。
初めてのモガジョガダイニングは古民家のような佇まいなのだけれど、お料理も美味しいようで、枚方ではいろいろな場所で唄わせてもらえるようになったけれど、どこも個性的でなにしろみんな私くらいの年代のお客さんが多いのだけれど、み〜んな元気だし、私の怪しい関西弁にも反応してくれる。別に私はわざと関西に行ってマネしているわけでないのだけれど、どういうわけか自然に少しだけイントネーションが変わる。叔母が大阪にいるせいもあるのだが、その東京育ちの叔母の話し方もかなり怪しい。。。やっぱりネイティヴにはかなわない。また唄わせてもらいたいお店に連れて行ってもらって嬉しかった。
      オオキニ〜

大阪には、やはり必ず御世話になるおうちがある。八巻家だ。犬巻ワンという名前で6年前に突然メールを送ってきた八巻秀樹くんは、生田敬太郎さんを崇拝<言いすぎかな)とにかく敬太郎さんのファンで、でも敬太郎さんを知るきっかけになったのは、最初海援隊のファンだったから、、という遍歴をしていたのだそうで、彼自身も唄をうたう。大阪では私のステージで唄って貰うし、ハモニカも吹いてもらう。ハモニカは敬太郎さんからの直伝で、練習もして会うたびに音が素敵に鳴ってくるし、グルーヴが変わってきて、嬉しくなる。
それだけでなく、とにかく民泊の連泊をさせてもらって、お風呂や朝ごはんまでいただいて、夜は夜で奥さんは朝が早いので、その後もかなりつっこんだ話を飲みながらやってしまう。神戸の佳奈さんしかり、年下だけれど、反対に私が相談してしまうことも沢山あり、八巻くん夫妻は、苦労してきただけあって
とても的確でクールかつ親切な意見を言ってくれる。
枚方の翌日は、心斎橋のど真ん中のビルにある「BARかまくら」  そう
鎌倉研さんと奥さんが二人でやっているお店で、高級感溢れるお店というイメージがあったのだけれど、それは周りの町並みの空気やビルの印象で、改めてギターを持って入ってみれば、木の床やすっきりと清潔にされたBARかまくらは、この大阪ミナミの街で頑張ってよいライヴをやりながら、そして夫婦二人で朝方まで様々なお客さん相手に頑張っているお店なのだ。。。と感じる。
何せ喋りだしたらそれだけで、笑わずにはいられない鎌倉研さんが盛り上げて
しかし、きちんと唄を聴いていてくれていることが嬉しいし、唄も自然に盛り上がってくる。そういう精神を忘れずに自分も唄っている人がいるお店だ。
八巻君のハモニカも手伝ってもらい、研さんからのリクエストのKASABUTAも楽しく唄わせてもらった。
大阪最後は、針中野の商店街にある「かいたに屋」という酒屋さんの三階。
酒屋さんは今大型店の安売りでそらはそれは大変だろうなぁといつも思う、薬屋さんなどもそうだ。しかし「かいたに屋」さんの現在のご主人は、お母さんから受け継いだ様々な智恵で、夜遅くまで営業して、品揃えもフツウではないほど豊富で、なんといっても地下にある立ち飲みやはお母さんのときと同じように美味しい「かんとだき」をつくって「お酒は一人二合まで」なんていうお客さんの体に気遣った張り紙が温かで、一階のお店を上がると、今度はモダンなBARがあって、三階でライヴがあると二階からもゆったりと音楽が聴けるようになっている。八巻くんが唄い、私が唄い、お客さんはそれほど多くは無かったが、かいたにさん自身が音楽がダイスキだから耳と舌も肥えた人たちや外国の人も集まってくる。いつも唄う場所の目の前にはギネスの大きなポスターが貼ってあるので、それだけが唄っているときに気になっちゃうけれど。。。
頑張る商店街の象徴のような働き者のかいたにさん、元気をもらうのだ。

神戸、大阪と過ごして、また今度は滋賀の甲南町に戻ってきた。そう三重のすぐ近くなのだ。
甲南には忍者屋敷がある。その敷地の向かいに「アリアリ」という手作りの建物があり、その建物を作ったのはアリアリの主の森川さんだ。
森川さんは、いつもお店に私が着くと挨拶そこそこに生ビールをドンと出してくる。しかし、結構な長旅だったので、とにかくリハーサルまでロフトで昼寝をさせてもらった。私の旅のお約束なのだが、出来ない時も多いから助かった。そういえば、四日市でもじゅんこさん<彼女とは鴨宮のジーズキャフェで出会っていて、その後彼女が四日市に越してきて再会して御世話になっている)の部屋でもフルハウスの出番の前まで眠らせてもらった。

アリアリのライヴは、今回は近くで居酒屋さんもやっているミュージッシャンのりょうじさんと一緒に唄った。りょうじさんの奥さんのクミちゃんが森川さんのかわりにカウンターを仕切ってくれた。森川さんは客席でお客さんのように一杯飲んでゴキゲンだったけれど、本当はとてもシャイな人でもある。
津のええかげんからガスリーくんも来てくれて、クミちゃんたちが一生懸命お客さんを呼んでくれて、賑やかなライヴだった。打ち上げはりょうじ夫妻の居酒屋その名も「ミルクボーイ」という、静かな住宅街に忽然と出現する不思議なお店でお鍋を頂く。ライヴより賑やかだ。何から何まで御世話になってしまったけれど、約一週間の最後の夜だ。

翌日は、みんなで亀山の「月の庭」までドライヴしてお昼を食べて、ガスリーに四日市まで送ってもらい、JRを乗り継いで、小田原の先の秦野までなんとかギリギリで到着した。
凄いスケジュールを組んでいたのだ。四日市から神奈川。
秦野の「たばこ祭り」に出演。
もともと、秦野ではたばこの葉を栽培していた歴史があって、その歴史から一年に一度の大きなお祭りが続いている。2年前にも御世話になったが、今度は
一緒に誰かと、、と言われて、夏に天婦羅「神尾」に来てくれていた独酔舎さんにお願いした。独さんにはいままでいろんなことで御世話になっていて、そしてその誠実な人柄が唄にも表れていて、とにかくお願いしたのに、今回も私が遅刻しそうになっていたので心配をかけてしまう。。。そういう相性というものがあるのかしら。。。
なんとか会場に間に合ったのだけれど、私の前に唄う独酔舎さんの時に、
小雨が降ってきて、ギターが濡れてしまった。。。。あ〜またまたこういうことに、、、、。なんとか短めに終って貰って、私も短くしようか、、と思ったらなんと雨は上がって、40分ほど唄った。会場での出し物は私で最後だったので、広い秦野の役所前の広場にいる人たちも、そろそろと帰り支度。。。。
でも、声をかけてくれたPUKAPUKA島のぎんちゃん、独さん、そしてCDの売店を出してくださっていたまさえさんに感謝。
なんとお客さんで来てくれていたジーズキャフェのジョージさん、あたるくん、そしてトナカイくんは愛車のビートルで家まで送ってくれて、、、。
その朝に忍者屋敷の前でビールを飲んでたとは思えない移動距離と出会いに自分ながら不思議に感じて、また時差ボケしないように、何も考えずに眠った。
長いツアーのあとは、溜まった郵便物や、メールのチェックや、本当はすぐにパソコンに向かうのが良いのはわかっているのだけれど、だんだんそういうことがすぐに出来なくなっていた。
でも、まずは体を元気にしなければならず、不思議なことに翌日くらいまではテンションが上がっているのだけれど、2〜3日するとドーンと疲れが出る。
しかし、この9月から10月はそういうことも言っていられなく。
旅の翌日は、レイチェルさんの通訳をやってくれる晴子さんと代々木マイバックページで会う。元ジェリージェフのママ加代子さんの紹介で、すぐに仲良くなった。
帰宅するとレイチェルさんからメチャクチャに沢山のメールが送られていたのを発見!飛行機やホテルの変更。。。今はホテルも飛行機もパソコンに向かわなければ始まらないわけで、、、
とにかく、そういうデスクワークを終えてから、宿題にとりかかった。

その宿題は、永原元ちゃんがはじめてプロデュースして制作が始まっている
デザイナーのAKIくんと沢山のアーティストたち集まって録音する大変興味深いアルバムの一曲に詞をつけて唄うというもの。
メロディーにAKIくんのイメージを聴きながら歌詞を書くのは面白いけれど
大変な仕事でもある。普段は最初にコトバをつくる私だから。それにKEYがたか〜いぞ〜!録音まで数日しかなく、AKIが送ってくれたスケッチを眺めながら、何時間もウロウロしていたのだけれど、いざ、ペンを持ったら、不思議なコトバが空から降ってきた「アメアメ」という雨みたいなコトバ。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年01月16日

2009年9月のこと半分

NYから帰って、暫く休養。ってずっと休養じゃない??と思われるかもしれないのだけれど、水面下では毎日、秋のコンサートの準備のための打ち合わせやら、後半期のスケジュールを決めたり、じっとはしていなかった。。。のだが、どうも一日中眠たい。。かなり強力な時差ボケに襲われて2週間ほど苦しんだ。
その間、博多「金太郎」にて岩切みきよしさんとのライヴ。博多には息子がいるので、到着してから息子の通う学校へ。学校の先生と息子と三者面談。
会っていないうちに彼は20歳になっていて、しかし、親子というのは面と向かうとなんてじれったいのだろう、、、。でもメールしても電話してもわからない顔色とか、目つきとか、やっぱり会う事が大事で、来年卒業の後のことを話そうと親も学校も思うのだけれど、今夜の予定のほうが彼にとってはずっと大事!
この息子という人が私のところに来てくれてから20年、どれほどいろんなことを教えてくれたことろう。。。自分の二十歳を思い出したら寒気がする。
親がそばにいなかったことを良いことに、今の彼の何十倍もアッブナ〜イことばかりやっていたのだから。。。。いまの人たちはクールな人達が多い、、
けれど、アツイおもいも心に秘めているはずで、それは母の祈りと背中にかかっているのを今回の面談でも思い知らされて、どっちが生徒なんだ?

岩切みきよしさんは、偶然にも息子の学校の院長の友人で、そして若い頃お互いにヤマハのポプコンの九州大会で素晴らしい賞を獲得して、プロを目指して東京に出てきたのだそうで。その後二人ともプロ歌手としての夢は実現できなかったのに、院長氏は音楽学校を経営するという、いわば音楽をする人たちを育てるという音楽家になり、岩切さんはなんと、福岡の市会議員となってしまい、しかし「唄う市会議員」というまったくもってころんでもただ起きないオカシナ< 本当に岩切さんのMCはオカシイ)音楽家になって、二人とも夢は現実のものになって進行中なのだ。
金太郎には、いつもの高松さんや、若いけれど私のライヴに来てくれる人や
お店の常連さんが集まって、ライヴがはじまった。
とにかくみんな九州の人は飲む! もういいんじゃない?と思うのだが、まだ飲む、、という人達を知っている。その夜もみんな電車の時間ギリギリまで飲まれて帰っていった。金太郎のマスターはギターが大好きで、かなり値打ちものもあるし、プレイもする、そして奥さんと二人、以前は着物の生地でアンティークアロハを作っていた。マスター&ママというより、音楽やファッションの話をする博多の友人のような関係で、お互いタメぐち。ただ、私は今太郎できちんとご飯を食べたことがないので(なんだかタイミングがなかっただけ)
こんどは遊びにだけ行ってもみたい。

博多から帰り、アールズアートコートにて、音響の加納厚氏、協賛というか当日のマネージャーみたいなことまでお願いしたサウンドフォルテの社長小日向さんそしてホールの横尾さんなどと10月11日の「ありがとう よしだよしこウタウ」の打ち合わせ。
こういうときに一番必要なのは、進行表とセッティング表。進行は出演者が私とレイチェルさんなのでコトバでも足りるのだが、ステージのマイクのセッティングの絵を未だに私はきちんと書けない。。。かなり心配して打ち合わせに行くと、なんと加納厚氏がキッチリと照明さんにもわかるようなものを書いてきてくれた。。。ありがたい。。。あっちゃん、もう私のことお見通しです。
予約の確認、これも自分のHPと労音とふたつでやっているし、当日の人もあるし、少ないスタッフでお客さんが気持ちよくスムーズにホールに入れるように、そして体の不自由な方も無事故であるように、、本番まで一ヶ月をきって
毎日気になることばかりが頭によぎるが、こうやってかずを重ねていくうちに学ぶことも沢山あるし、やはり一年に一度くらいは自分で企画して主催しなければ、陰で尽力してくださる人の気持ちもわからないし、なんといっても時間とお金を使って応援に、私の唄を聴きに、元気な顔を観にきてくださるお客さん友人の気持ちに感謝がうすれていくから、私には大切なコンサートなのだ。

9月19日から三重、神戸、大阪、そして最後は滋賀という丸々一週間の旅が始まる。
三重の「ええかげん」はずっと以前から存在は知っていたけれどなかなか行かせてもらうチャンスがなかった。
今回は、沢山の人たちが出るお祭りだ。3日間かかって続くのだが、私は中日に行かせてもらった。
もう目の前は津の海、そこに葦が沢山目立つ大型の海の家のような木造の建物がある。
いろいろなアーティストが唄いにきている場所だ。
この日も友人も沢山いて、はじめてでもなんだか何処かで会っているような
人たちばかりが、この入り口のドアもはっきりとしていない不思議な空間で唄い演奏し、喋り、飲んでいた。
瀬戸口修氏はお酒を控えているというのでビックリしたけれど、確かに本番の酔っ払っていない瀬戸口さんは新鮮だった!
さかうえけんいちさん、鎌倉研さん、それから私も短時間だったけれど濃密なステージをさせてもらった。いとうたかおさんもゆったりとやっていて、私は客席の畳敷きのところで寝転んで聴いていた。行儀が悪いけれど、みんなそんな感じで聴いていて、でも耳だけは厳しいオーディエンスであるのを知っている。
みんなキャンプするひともいるけれど、私はツアー初日、宿舎をとって海の家を後にしたけれど、また唄わせてもらいたい場所だ!

翌日は、四日市の駅前のフルハウス。これで3回目なのだけれど、今回はちょっと特別な四日市なのだ。
はじめて四日市でうたわせてもらったのは4年前で、それから小川あゆさんと蘭光(らんちゃん)がいつも自前で運転から宿舎<民泊多し)の手配をしてPAからあゆさんの素晴らしいMCまですっかり御世話になっていた。
あゆさんのパートナーらんちゃんが脳の病気で2008年に倒れて、それから春が来て、私は病院のらんちゃんと会った。でもこの人は大丈夫だなぁ、と思った。本人がしっかりしていたし、なんといってもあゆさんはじめ家族や周りの人達に囲まれて孤独でなかったからだ。「また来るね」と言って別れて、
まさかその年の秋にらんちゃんがライヴの客席にいてくれるとは思わなかった。凄く嬉しかった。このフルハウスのライヴがらんちゃんライヴハウスデヴューだったそうで、それも嬉しい。
民泊はドリトル氏宅。いつものメンバーがいつもの場所にいられることがとっても楽しかった。
あゆさんは少し痩せていたけれど、強い人。それを支える素敵な友人たちも素敵だ。一杯だけのビールにゴキゲンのらんちゃん、今度は一緒に演奏したいけどな、オートハープは重いし、マンドリンも大変だし、ウクレレはどうだろう?
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

電話で英語

爆睡!と思っていたら部屋の電話が鳴った。
RACHEL FARO からだった!
わ〜!はじめて喋った!本物だ!今までメールのやり取り<苦労したな)だけで、とりあえず今回の旅で逢える事になっていたのだ。彼女はゆっくりとした話方で、私にわかるように簡単に用件を伝えてくれた。
まだマイアミにいること。そう、彼女はスタジオや自宅はマイアミなのだ。
NYのお母さんの家でリハーサルと食事をしようということで、場所と電話番号を教えてくれた。とっても忙しいのだそうだ。でもその声は優しくて、私たちが無事にNYに着いたことをとても喜んでくれた。
ともあれ、アメリカに着いてはじめて話す長い英語もゆっくり聴いてくれた。
アメリカ上陸を更に実感して就寝。

翌日、早く目を覚ますとMちゃんも起きてコーヒーを入れていた。部屋はアナログテレビとあんまりお湯の出にくいお風呂という環境なのだけれど、コーヒーマシンだけはあって、掃除に来てくれたメイドさんにチップを奮発して、掃除はいいからコーヒーいっぱい頂戴!みたいに言ってみたら滞在中十分すぎるほどのコーヒーのパックをもらった。やったね!
とにかくホテルの食事は高いから、コーヒーを飲んで外に出る。流行っているのはスープやさんだ。10種類以上あるスープを頼むとパンがオマケで食べられる。滞在中に一番利用したな。$5ちょっと。Mちゃんは甘いものが好きなので、随分ケーキにも挑戦したけれど、これはどれも失敗だった、、、。
スーパーで買ったヤマザキパンみたいなメーカーのバナナマフィンが一番ヒットだった。
昔私が住んでいた西海岸では、ちょうど自然食ブームでなかなか美味しいくて
体にやさしい食べ物を売っているところがそこ此処にあったのに、NYのダウンタウンは安全になったこともあって、観光客用の高い店か、日本でもあるファストフード<世界的にか)が多くて、とにかく歩いて探すしかない。
街を移動してグリニッジ・ヴィレッジのほうまで行ってみた。もちろん地下鉄。昔はトークンというコインを買って乗ったのだが、今はカードになっている。カードを買うのも智恵がいる。乗り換えが難しい。。。って?日本の都会の地下鉄に比べればあまりにも単純だとMちゃん。。そうです私があまりにもわからないのです。。。よく二十歳そこそこで、あの危険な地下鉄に乗ったり、夜中の街を歩いていたもんだ。。。ぞっとするね。

グリーニッジ・ヴィレッジも観光客で溢れていた。そしてそこにある店も完全に変わっていた。でもはっきりと覚えている道の名前は変わっていなくて、どんどん歩いて南下するとそこはかつて毎晩通ったコーヒーハウスやクラブのある一角。KENNY'S CASTAWAYという小さなコーヒーハウスも健在だった。そこで私はいろんなアーティストを聴いた。エリック・アンダースンと再会したし、そしてレイチェルさんをはじめてみたのも此処だ。その日の出演者のリハが始まっていたけれど、なんとなく夜まで待つ気がしなかった。。。必死に新聞スタンドでヴィレッジプレスを探すのだけれど、どこも置いていないか売り切れなのだ。今はネットがあるからなぁ、、。どこか一軒でも音楽を聴いてもよかったのだけれど、そういう気持ちにならない空気。。どっちがかわったのか?
自分?時代と街?
でも、なんとなくあてもなく散歩するということを私たち二人とも普段していなくって、Mちゃんはハイヒールにスーツでカツカツと駆け回っているし、私は重たい荷物を担いでヒーヒー言いながら歩いているから、この抜けるような青空の異国の夏休みを「おなかすいた〜、ねむたい〜、どうしようか〜」と
言いながらブラブラするだけで物凄い贅沢だ。
雨の日が一日あって、ホテル近くの雑貨やさんで可愛いフクロウの絵がいっぱいプリントされた長靴を売っていて、Mちゃんが私にプレゼントしてくれた。
Mちゃんやっぱり可愛い傘の絵のを買って、そのままそこで履き替えて、
MOMAに絵画鑑賞に行く。けっこうみんな私達の足元を見ている。
MOMAには私のダイスキな作家の絵があるはず。アンドリューワイエスのクリスティーヌの絵だ。この近代美術館も物凄い人で溢れていて、なんともビックリしたのだけれど、随分歩いて歩いて登ったり降りたりしてやっと見つけたワイエスの一枚。もう一枚オキーフの絵も探したのだけれど、何処かに出張しているようで探せなかった。でも満足、私が確かに、この絵の前で何時間も過ごしていたことを確認しにきたのだ。

雨が二日続いたけれど、ホテルで休んでは外に出たり、食べてはまた昼ねしたりで週末を過ごし、翌日日曜日、いよいよレイチェルさんと逢うのだ。
お母さんの家というのはマンハッタンのずっと北の非常に高級な場所で、お店も歩いている人たちもちょっと違う。観光客もいない。
説明どおりにバスを乗り継いで行く。私でもわかるNYの道は嬉しい。とにかく道の名前が住所のようになっているから迷子にはならない。
着いてビックリ!すっごく高級なそれも威厳さえ感じる大きなアパートメントで、入り口にはガードマンがいて、何処に行くのかたずねられたけれど、お母さんの名前を知らない、、やっと通じて三越本店みたいなエレベーターで部屋の前に。レイチェルさんが迎えに出てきてくれた。髪の毛は写真で見るよりすっと長くてストレートになっていて、ていねいにお辞儀の挨拶をして招きいれてくれた。まるで集合住宅とは思えない大きな部屋がいくつもあって、一番奥の日当たりの良いリビングに通されて、、、でもお互いになんだか微笑み会うばかりで、、変な感じ、、おかしいけれどしばらくそうだった。
Mちゃんも英語は話せるか?とレイチェルに聴かれて、イヤソノ〜エヘヘ〜みたいなことをどうやって英語で話すのか、、、。
しかし、お土産に持っていったお箸とお箸袋を渡した頃から空気和らぐ。
なんでも、彼女は翌日からカナダのサスカチュアンのチベット仏教の道場のセッションに参加するのに箸が必要だったそうで、この流行のエコ箸は大いに役に立ったようで、お母さんのニーナさんにも渡して大喜びしていた。ニーナさんはクラシックの歌手だったそうだ。
まずは、10月のコンサートの内容と条件の確認。特にホテルのこと、そして費用のこと、なんと電卓まで出てきてシビアな社長会談になった。全て私が招待するわけだけれど、私だったら「お任せします」で終わるのだが、飛行機会社やホテルやその他細々と注文があって「はい、わかりました」という、、。
人間、お互いにこういう真剣な事柄になると、なんとか会話できるものだ。
ひとまずお話終わりで、本題のリハーサルなのだけれど、これは超簡単だったし、なんと彼女のダルシマはちょっと壊れていた。でも一緒に「道端でおぼえた唄」〜DaggarDance」を交互に歌ったときはお互いにちょっと涙が溢れてきた。彼女の心の中はわからないけれど、私がこの場所でこんな風にレイチェルと唄っていることも、これから日本でツアーをすることも想像だにしていなかったのだから、もっと感激してもいいくらいなのだけれど、あまりにも自然の成り行きのように思ったし、レイチェルも何度も信じられないと言いながらも、ずっと昔からの知り合いのようにそばにいた。
翌日早朝にカナダに行くという彼女は荷造りで忙しく、私とMちゃんは、お母さんや従兄弟や若い友人などと簡単にチキンやおつまみでキッチンパーティーになった。
レイチェルが疲れるといけないので、早めに失礼したけれど、帰り際に
「凄いおうちですね」と言ったら、自分も呆れてるみたいなことを言っていて、彼女は一人で子供も育てながら、プロデューサーという仕事もして、マイアミの暮らしはよくわからないけれど、きっと質素な生活なのだろうと想像した。音楽で大金持ちになるのは一握りの人たちだし、一緒に唄っていて、そういう匂いを感じたのだ。もっと深い話ができればわかることもあるだろうけれど、とにもかくにも、このNYでの一番大切なやるべきことをして、豪華アパートのガードマンさんたちにオヤスミナサイを言って、帰りは地下鉄でセントラルパークまで。
残された二日間でなにをしよう?
やっぱりグラウンド・ゼロに行こう!
地下鉄の駅名は「ワールドトレードセンター」まさにビジネス街だ。お昼時に着いたので、多くの人たちがランチを食べに外に出ていた。その街に広大な工事現場がある。外からは何も見えない。フェンスで囲まれているそこには、これからあの出来事を忘れないための大掛かりな施設建物が建設されるのだそうだ。
観光客がいたのは、その近くにある教会の中の展示室。主にそのときの消防士の人達の功績を讃えているものや、日本からの千羽鶴などもあったけれど、とても小さな場所で、きっとこれからつくられる建物はどういうものなのだろうか? 長い時間いたい場所ではなかった。人々は忙しそうだったし、工事の音と車の音がいやに大きく聴こえる場所。

最後の休日、快晴! もう一度グリーニッジヴィレッジやSOHOのほうに行って見ようよ、というわけで、慣れた感じで地下鉄に乗る。
最後にMちゃんにも何かプレゼント、、と思って、路上のアクセサリーやさんで、ピンクの石の指輪を値切って、しかも半分だけカンパというケチくさいプレゼントになっちゃったけれど、喜んでくれて、、すまぬ、、、。
メキシコ料理を食べていなかった!そうそう、アメリカで美味しいのはメキシコ料理で次がチャイニーズだった。ということで、うれしいマンハッタンの南のお洒落な通りに面したメキシコ屋でタコスとエンティラーダを頼んでワインも飲んで、沢山歩いた。
ブロードウェイのミュージカルもブルーノートのライヴも行かなかったけれど
Mちゃんが、カーネギーホールの入り口で笑顔で挨拶するポーズの私の写真を撮ってくれたし、なんといっても良く寝てよく食べ、よく歩き、話して笑って
こんなに体に良いことをしたのはお互いに久しぶりだったのだから、凄く充実していたのだ。
最後のディナーは、ヴェトナム料理屋をみつけたので、チャーハンとを一皿と生春巻き一皿を食べて乾杯。滞在中一番美味しい食事で安くて、だいたい物事はこうやって終わり頃にイイコトがやってくるものだ。

帰りの日。成田の時みたいに座席が変わったらいいね〜なんて話していたけれど、帰りはしっかりエコノミーで、それでもJALのエコノミーはまだまだ捨てたものではない、、。行きよりも短く感じたのは、楽しかった日々の証拠。
お昼過ぎにケネディイ空港を発ったのに、到着はその日の夕方で、時空を飛び越えてちょっと沖縄から帰ったような、、成田から家までのほうがずっと長く感じる。
久しぶりに美味しい玄米のオニギリをいただく。迎えに来てくれたKくんが私達のために作ってくれていたのを成田エキスプレスの中でほうばった。
Mちゃんが「美味しい美味しい」を連発して平らげていて、普段お米をあまり食べない彼女の食べっぷりに嬉しくなった。

7日間の旅、行かせてもらえてよかった! 
NYは不思議な街だ。歩いているだけで嬉しく元気になるのだ。それは昔にも感じたけれど、これだけは変わっていない。小奇麗になってしまった部分もあるけれど、行くところに行けばまだまだ様々な差異があるはずで、今回はおとなしく怖いところに行かなかっただけだけれど、高層ビルが巨大な林のように建っているダウンタウンでも、不思議なことにみあげると空が大きく見えるのだ。
また行きたい病になってしまう街、Mちゃんご夫妻に感謝。
また行こうね。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年01月15日

NY、にゅーよーく、ニューヨーク

御世話になってばっかりのお友達のMちゃんから「一緒に旅行に行こうね!」と誘われて何処に言っても良い??というMちゃんのご主人の太っ腹にビックリしながらも「ニューヨーク!」と二人して叫んでしまったのが2009年春のこと。Mちゃんのご主人と息子殿は二人して冒険好きというか、歴史探訪、そして秘境めぐりが大好きで、Mちゃんキャリアを持った多忙なワーカーであるので、お休みのときは死んだように家で寝ていたい人なのに、今までずっとその秘境めぐりの旅にお付き合いの家族旅行をしてきていた。私にもエジプトの砂漠の砂とかお土産にいただいたり、ナスカの地上絵の話やら、まぁ本当にうらやましくもあり健気でもあり、、。
昨年一緒に父の散骨に立山に付き合ってくれた旅は、私たち長い40年近い歴史始めての二人旅で、そのときに二人で室洞で大騒ぎしながらビール飲んで、
国民宿舎で沢山飲んで、まぁ女二人の修学旅行やって、Mちゃんはそのときの旅がとても楽しかったことをご主人に話したら、まぁ「奥さん元気で留守いい」というよりも奥さんがゴキゲンなことは嬉しいのだと思う。。。そういう経緯でニューヨークという秘境の正反対に行くことになったのだ。

出発の日、成田空港でMちゃんと待ち合わせ。
私はいつもツアーで使っている簡単なキャリーケースひとつ。なんと知らないことばかり、、、液体のものは預ける時にも制限があるので慌てて容器を入れ替えたり、大騒ぎのスタート。出発を待っていると、なんだか私の名前をアナウンスしている、、、でも私トイレの中。。。戻ってみるとMちゃんがニンマリ待っていた。なんでも座席の空きやバランスのためにエコノミーからビジネスクラスに席を変えてくれないか?と聞かれたらしく、「ひゃ〜!そんなラッキーあっていいの???」と素直にOK!をして、私たちは12時間少しのフライトを産まれてはじめてのエグティヴなそれもJALの最新鋭のなんとかシェルとかいう酸素カプセルみたいな座席で飲み放題、食べ放題という時間をいただいた。
しかし、いくら飲み放題食べ放題といわれても体動かすわけでなく、この12時間は働きづめの私達には最高の熟睡時間であって、とりあえず眠ることにしたのだけれど、まわりの中年男性の団体様ご一行が、飲む飲む、食べる食べる、騒ぐ騒ぐという遠足状態で、でも嬉しいんだろうなぁ、、、と。。だってこんなのウッソみたいな幸運だもの!

ケネディ空港では、現地の代理店の男性が私たちを車でホテルまで送ってくれることになっていた。日系3世という彼はずっとジョークを飛ばしながら、とにかく今のNYは非常に安全であることや、道すがらの建物やお店の説明を話し続けてとても賑やかで、あっというまにダウンタウンに着いてしまった。
あ〜久しぶり〜という感激をする暇もなかったけれど、まさに碁盤の目のマンハッタンの道の名前を見ながら少しずつテンションが上がってきた。
私たちが泊まるのはブロードウェイ近くのホリデイ・インで、観光客が殆どの大きなホテルだ。
私が一人旅をしていた頃には絶対に泊まりはしなかった雰囲気のホテル。あの頃はこだわっていたね〜そしてつっぱっていたね〜
こうして友人の好意でここまで連れてきてもらっただけで、もう感謝で泣きそうになる。
夏の終わりのニューヨーク一日目は散歩とご飯で終わりそうだ。
急いでホテルを出てセントラルパークの近くのレストランを物色するのだけれど、何を食べていいのかわからない、、、。なるべく安いのがいいのだけれど一日目のディナーだし、、アメリカっぽいダイナーに入る。。。しかし、まわりのテーブルの人たちの食べている料理を見回して、やっと気づいた!アメリカンな食べ物の味と量に、、、。
Mちゃんとのはんぶんこご飯が初日からはじまる。一皿で二人はお腹いっぱいになる、そしてすっごく胃が脂っこくなる。
新聞から食料品など売っている小さな商店、ここは中国系のひとがやっていて
私はヴィレッジ・ヴォイスというタブロイド版の新聞が欲しかったのだけれど
ない!と言われる。3件くらいいったけれど何処にもない。あれがあれば、何処で面白いライヴをやっているとか、、わかるのに、、と思いながら、とにかくその夜は爆睡!GoodNight NY♪
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年01月14日

2009年8月のこといろいろ

7月31日の「ひかり祭り」は三日間の祭りなのだけれど、8月1日には
「憲法九条フォークジャンボリー」が東京新大久保であって、私は参加することになっていたので忙しいことになってしまった。
沢山の表現者の人たちがいて、知っている人も、それから本当に歌声運動を続けている合唱のひとや、だいたい一人もち時間は15分くらいで、あっというまにステージは変化していく。このフォークジャンボリーも二日間あるのだけれど、私は翌日はまた「ひかり祭り」に戻るので一日目に参加になったのだ。
数年前は上野の水上音楽堂でやっていて暑い盛り、野外のコンサートの雰囲気も好きだった。4年前の上野のフォークジャンボリーの翌日に高坂一潮さんが脳出血で倒れたのだったなぁ、、。そんなことも思い出してしまうけれど、
今回は新大久保のアールズアートコートで。
「憲法九条」というコトバが最初につくフォークジャンボリーはいろいろな場所で行われていて、私も何回も参加させてもらっている。
「ケンポウキュウジョウ」を守るということイコール平和ではなく、これは政治だけの問題でなく、そして私自身はこの九条という響きを聴くたびに、自分にも(こころ)刺さっているエゴと向き合う。ただ、この素晴らしい法は世界でも稀な法であって、長い歴史の中で日本という島国がしてきてしまった沢山の過ちや、また沢山の犠牲の上に産まれた63年前の条文は誇り高き約束だ。
私に刺さっている矢は、多かれ少なかれ殆どの人間に刺さっているかもしれない。ただ、20世紀後半から21世紀に生きることを決められた人達が、自分の心に刺さったエゴと闘うことが一番難しいことなのだと思うし、渋谷でしゃがんでいる子供達と、貧しいアフリカやアジアや南米などのスラムやキャンプでしゃがんでいる子供達も皆同じ人間でありながらにして差別があり、不公平であって、ちっぽけな自分は?と考えるための「九条」でありたいと思うし、まずは自分の目の前の人の足元くらい灯りで照らせるようになりたいのに、本当に照らされてばかりいる。人の足元照らせば、自分の足元も明るくなるのに、いつもそれを忘れる。
そして、悪い人達(誠実でなく、エゴだけで生きている人)は沢山束になって結託しやすいのに、どうして善い人達(誠実な人達)の声は小さくて集団になりにくいのか? 庶民に知らされていないことを、本当に正確に伝えてくれる人達が欲しいとも思う。文きり調に「九条キュウジョウ、、」と叫びたくはない。今日もこんなに素晴らしい約束をした国の何処かで、武器が作られたり、
大小の差別があったり、友達同士が憎しみあったりしている。。。その根本の本質を痛くても感じて、出切れば自分で抜くことは一生出来ないかもしれないけれど、刺さっている矢の存在を自覚して、今いる処で自分のたたかいをしていこう。。。それが私の「九条」。そういうオモイで「She said NO!」を唄わせてもらった。唄は一瞬だけれど、唄い続けていくことは一瞬の連続になればよい。大変なやりかたを始めてしまったものだと毎日思うけれど
善き人達と沢山出会いたいし、話したいし、唄いたい。

翌2日、再び牧郷へ。この日は豪雨。昼過ぎに会場に行くと、雨でぐっしょりm濡れながらもステージでは演奏が続いていた。元校舎には食べ物も豊富にあって、どれも美味しくて安い。
私のアルバムジャケットやDVDの撮影をしてくださっている井出情児三一家も三日間キャンプをしていたようで、一人娘サヨちゃんはドロンコでゴキゲンに踊ったりしていたけれど、機材や楽器や運営している人達はそれはそれは大変だったと思う。
直子に会うと、すっかり疲れていて体中にシップを貼っていた。全ての人たちに気を使いすぎて、、、しかしこの日も彼女のステージがある。
メインの校庭のステージでは前日に新大久保で会った寿の二人が演奏シテイテビックリした。みんな元気だな〜
この祭りがこの年で終わることや、直子のお母さんのことなどで、特別な企画が沢山あったようだ。
直子のステージに私はダンサー&シンガーとして参加。「え〜踊れないよ〜」と言ったのだけれど、フラの先生もいるし、衣装はキヨシローくんやどんとなどの衣装を作っていた女性がみんなのイメージでわざわざ用意してくれて二度ときることは無いかもしれないような衣装だし、そして唄はどんとの「波」だし、、、ということで、控え室の教室では女子が大はしゃぎで着替えたりメイクしたり、直子もすっかりキラキラなメイクになって、この夜の体育館でのラスト近くの出し物がはじまった。
私の衣装も波のような虹のような「ドナタデスカ?」という変身ぶりなのだけれど、たまにはこうして自分の殻から出てきてフラして波になりきるのは気持ちのよいものだと思った。
着替えて賄いのグリーンカレーを食べる頃も雨は激しく、外のステージでは
ムッシュかまやつさんたちのバンドが演奏していたけれど、体中ドロドロになって牧郷に泊まれないので、一日だけ「波」の演奏にだけ奈良からやってきた
長田TACOちゃんに藤野駅まで落としてもらい、電車に乗ると、昔、そう、ほんとのむかしアメリカのバークレーに住んでいたころに友達になって随分会っていなかったヒロくんにバッタリ会う。みんないい年していても祭りと聞くと血が騒ぐのだ。ほかにもその時代の友達や、唄の旅で知り合った遠い島の人などにも沢山会った。地域をも巻き込んで、すこしづつ育った手作りの祭りには
そんなふうに距離や時間を越えて人を集めてしまう力があるんだなぁ。
直子さんありがとう。頻繁にあえなくても友達でいてね。

8月3日で禁煙3ヶ月。今回は楽な禁煙だった。<今回というのは、次回もあるのか?)でも結婚と禁煙は何度したていいじゃないの、、でもないか、人に迷惑かけるときもあるからな。それがわかっただけでもよしとして、一人お祝い。奇しくも息子の誕生日。

7月でレコーディング全て終わったように書いたけれども、正確にはこの後まだ三日ほど仕上げがあった。お盆を挟むと工場はお休みなのでかなりギリギリの作行だったけれど間に合った。

8月はツアーをしないことに決めていた。上半期、旅と録音でほとんど丸々休みの日が殆どなかった。みんなそうなのだけれど、やはり重たいものを持っての移動は凄く体に負担がかかる。

9日の日曜日の昼間、聖蹟桜ヶ丘の「草苑」にてソロのライヴ。久しぶりの草苑には、昼間だからというゆったりとした雰囲気が流れていて、私は生唄でやらせてもらった。生は声に負担をかけそうになるのだけれど、なにも大声で唄わなくても聴こえるように唄えばよいのだな、、と最近思っている。難しいけれど、マイクがないと、なんだか自由だ。
終わってから美味しいお料理も少しだけいただき外に出るとまだ明るかった。

世の中は例年通りお盆やすみだけれど、2009年の夏は衆議院選挙の前で賑やかだったような気がする。
個人的には私は二大政党化というのはあまりよくわからない。本来は人物本位の選挙が良いのだし、でも国の中央だけにあんなに沢山議員がいるよりもっと地方の地元に仕事する人達がいたほうが良いのに、そういう自治体の議員の人達のことは地元の人しかわからないし、、、あ〜もうちょっと魅力があって嘘つきじゃなくて頑張っている人達がいないのかしら、、、と思う。
政権交代ということがマスコミで一番とりあげられた話題だったし、とりあえず変わってみないと何もわからないし、動かないから、時間はかかるかもしれないけれど、そうやってテレビに出ている人たちが喧嘩している間に、もっと「デキル人達」が生まれてほしいし、私の生きている間に、あ〜ほんとうに選挙であの人に投票してよかった!!と思えるような政と庶民の間柄になりたいと念願。

父親の三回忌。2008年に父の骨の一部、ほんのちょこっとを富山の立山の室洞口にまいてそれから一年。今回は一人で行く。
去年よりアルペンルートの入り口は寒くはなく、ビールの500mℓを買って、此処だったであろう、、、という場所で一緒に飲んだ。見事な絶景で、
やっぱり此処まで連れてきてあげてよかったとも思うし、元気なうちに二人で来てみたかったとも思う。やろうと思えば出来たのに、、、正直に言って、
父親より恋で急がしかったり、子供や生活を言い訳にしていて、、。自分が親になってはじめてわかることばかりで、親孝行で奮闘している友人を見るたびに頭が下る。もともと一人は嫌いな人ではなかったけれど、娘と好きな山に登れたらもっと楽しかったはずだ。ともかくも、毎年これからもお酒を持って来るであろう室洞口で、アリガトウを何回もつぶやく。
山から下りて、市内のカプリチョという以前にも唄わせてもらったお店でシークレットライヴをさせてもらう。2年前にこの店で本番の直前に電話が鳴り
父が白血病で倒れたことを知らされた。倒れた割には元気な声を聞かせてくれて、その後の四ヶ月苦しまず、痛がらず、煙のように逝った後に、みんなから
娘孝行なお父さんだね、、と言われたけれど、カプリチョに入ったらあの夜のことが蘇ってきた。そのときの私を知っている人達もいたので、なんとも温かいささやかなお盆ライヴになった。

8月27日から6日間、32年ぶりのニューヨーク旅行がはじまった。
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2010年01月12日

2009年覚書7月後半

盛岡から帰ってから数日後、近藤達郎家で「ひかり祭り」のリハーサル。
坪田直子ちゃんのサポート。ピアノは近藤だいちゃん、ベースがどんべいこと永田純くん、そしてギターとコーラスが私。この日には来れなかったけれど、
パーッカッションがマック清水さん。なんだか同窓会みたいな顔ぶれだけれどここにタコヤキこと長田和承がいたら完璧だ。そういう時代がむかしむかしあったとさ〜という一日だけのバンド。それぞれの道を歩いてきて、なんとか元気でいて、すっかり忘れていた曲も、だいちゃんのピアノが鳴ると思い出してくる。私の創った「ねぇ私がわかるかい?」のファンクヴァージョンもあって、自分でつくったのにわ〜!手が動かないぞ〜!かなり真剣で緊張するリハーサル。だって直子主役でまちがえたら、、、久しぶりにドキドキしてきた。
本番までに練習する時間をつくるのが大変だ。

18日(土)富士の「アニマルハウス」ば高速バスで御殿場インター待ち合わせと紹介してくれた御殿場リンコロの小澤氏に言われたのだけれど、東名川崎のバス乗り場というのを探すのにひどく苦労をしてしまった。なんと山の中の藪みたいなところに細い石段があってそこを登っていくのだと!タクシーの運転手さんが「お客さんその荷物持って無理だよ」と車をそっちのけにしてちっぽけなバス停まで登ってくれた。大渋滞の中やっと合流。アニマルハウスというお店のツルさんというオーナーはお蕎麦屋さんもやっているとのことで、本当はお蕎麦屋さんがいいなぁとおもっていたけれど、アニマルハウスは雰囲気のある素敵なラヴィハウスでかなりロックなお店なのだ。ロックと蕎麦がツルさんは好きなのだな。楽しそうにしていたけれど、忙しいらしくオーナーツルさんとは言葉はあまり交わさなかった。オープニングアクトにエリカさん、カウチポテトくんという若い人と一緒で、スタッフも若い人たちだったし、ステージもちょっと高い位置にあって、結構がんばっちゃったかな。
そのツルさんが、その後4ヶ月後に亡くなった事を年末にリンコロで聞いてびっくりした。また逢いたい人だった。。。とてもぶっきら棒でシャイなひとだったから。静かな寂しさだった。。。
富士のあとは御殿場リンコロに御世話になった。リンコロのステージはスタジオみたいに防音だから熟睡の場所。ありがたい。
翌日はリンコロでライヴがあって、レインマンという若者元気バンドと寺田町さんというシンガーソングライターのジョイント&バースデイライヴを客席から観戦!若いぞ、そして飲む飲む!寺田町さんとは名前だけは知っている仲という、そうお互いが旅の唄うたいだから、すれ違っても会った事がない同士だった。こうして会えるのは本当に珍しいこと。そしてその夜が寺田町さんの誕生日で、朝まで私の寝室であったリンコロの部屋がお祭りになっていた。
楽しいお休みの日。
翌日は沼津の「P-STAGE」新しいお店のようだけれどオーナー横井さんが一生懸命お客さんを集めてくださり、終わってからは、終電に間に合うように一生懸命私の荷物を持って一緒に駅まで走ってくださった。沼津というところお魚も美味しいのだろうし、一晩くらいゆっくりしてみたかったけれど、この翌日からはレコーディングがあるので短い旅になってしまった。

三日間、近藤宅のスタジオにて弾き語りのレコーディング。
「山」ダルシマで。「道」。「音」。「SMILE」はだいちゃんにピアノをお願いした。だいちゃんはジャズのピアニストでないし、私もジャズではないので、いつも私が弾き語りしているような感じで自然に弾いてもらった。でも丁寧な音色だ。
その間にベースの松永さんが「秘密はひみつ」にコントラバスをつけてくれた。仕事の早い人だ。数回聴いて、2回テイクでOK!
そして余計なことはしゃべらない人。なんと潔い。そこが近藤氏とも共通<似てないけれど)する精神で、こういう人たちの仕事に触れるとそれだけで心に綺麗な風が吹いてくる。

7月26日 日本橋の天婦羅やさん「神尾」にて、生音ライヴ。なんと
¥2000でライヴと天婦羅やお料理が食べられるというのだ。
企画してくださったKさんは、この「神尾」のオヤジさんと寄席や私のようなシンガーのライヴをはじめてしまったのだけれど、二人とも真面目で、真面目は良い意味で頑固でもあって、いろいろ大変なこともあったろうに、おかげさまで真夏の猛暑の昼下がり、唄い終って、まぁ江戸前天婦羅やら、なにやかや、申し訳ないようなありがたい一日をオヤジさんK&Kのお二人はプレゼントしてくださった。いつかああいうところに人にご馳走にならないで行きたいものだ。でもご馳走されるうちが花か、、、も。

翌日から、録音した10曲のミックスとマスタリングがはじまる。
全てを今回は近藤さんにお願いしたから、私がずっといても邪魔になることもあるし、なんといってもこの音決め作業が一番時間がかかるし、神経を使うから、私は家で待機していて近藤宅から電話が入ってから聞かせてもらいに行くということにした。
最後のマスタリングで曲順を決める。「今夜彼女は台所を棄てた」を一曲目にするといったら、だいちゃんは「お〜そうきましたか〜」というようなやりとりで、とにかく音がとても自然に仕上がっているのと、時間はかかったけれど、私自身が揺れることなく<悩んだし金策もあったけれど)みんなと気持ちよく作業できたことが全体から伝わってくるので、大満足のうちに工場へと音たちは送られていった。
その後すぐにジャケットの仕上げ。
選んだ写真は井出情児さんに撮ってもらったときから決めていたものだったから、これも迷い無し。いろいろ言われるだろうな。。。。と思っていても、腹が決まれば良いのだ。人から言われてもそうなっていればきちんと耳も心もそれを聴ける。

7月31日。藤野牧郷「ひかり祭り」
藤野の駅に着いたのは夕方。
出番が夜遅いから、ゆっくり到着して元牧郷小学校にバスで行けるはずだったのに、昔は車だったからバスの本数など考えていなかったけれど、かなり待つ。
バックパックや寝袋など背負った人たちが何人もいたけれど、私は出番があるから少し心配になってきた。
何台かの車が駅前にやってきた。「ひかり祭り」に行く人「乗れますよ!」
助かった!久々の逆ヒッチ!懐かしい! まるでウッドストック!!
牧郷ラボは島田力(ツトムくん)と直子ちゃん夫婦が廃校になった小学校に移り住んで、そのうちいろいろなアーティストも集まって子供たちも沢山いて、
そんななかで生まれたお祭りで、映像プロデゥーサーのツトムくんの才能、直子の丁寧な一生懸命な才能と沢山の人たちが出来る限りの智恵を集めて年に一回夏の終わりに開かれる美しいお祭りで、遠くからも星屑のような人々が集まってくる。
今回は直子のママが亡くなられてのお祭りなので、特別な想いがあって、直子はもう、全てを仕切っていた。
そして彼女自身のステージ!
さっきまで泥だらけで走り回っていたのに、衣装替えしてメイクしたら、さすが!女優のツボタナオコに変身したし。どうしてあんな風にポーズが決まるのか?5曲あっというまに終わってしまったけれど、体育館のステージのスクリーンには直子のママの写真やキッドブラザース時代の直子や、見てるだけで涙が溢れてきてしまう映像が流れ続けていた。
翌々日にもう一回、ステージがあるので、だいちゃんの車で都内まで乗せてもらってひとまず帰宅。
充実の7月が終わる。
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2010年01月10日

さてさて私の記憶が正しければ、、、、

2010年1月10日から始まる2009年7月からの日記です。
日記とは言えません。しかし記録をとどめておくことは私のしておきたいことです。しておきたいのにすっかりしなくなったのは、私の元来のサボリ癖と、
体力気力の弱さです。

言い訳はここまで。

2009年7月はこの数年必ず敢行する長い東北ツアーです。
岩手に住む旅のシンガーソングライターやなぎ君と途中で合流するというのがかたちになっていきました。彼は車で日本中を旅して私よりずっと沢山の場所で唄っている人なので、人との繋がりも沢山あって、彼のおかげで随分といろいろな人に会うことが出来ました。数年前に岩手の自宅が全焼して、仮住まいになって、そして新しい家にまた引っ越して。やなぎ君本人も素晴らしくエネルギッシュだけれども奥さんのみゆきさんはそれ以上にタフ!そして、岩手を旅するときは必ずやなぎ邸に御世話になるのだけれど、ほんとうに人に気を使わせない人たちで、最近は子供達がそれぞれ家を出て行って生活しているから、やなぎ君が自宅にいるときは夫婦水入らずで、これがなかなか素敵。
つかず離れず、しかしお互いをしっかり尊重しあっていて、私は今までに双方の口から相手への愚痴のようなコトバを聴いたことがない。あるようでないのがこういう夫婦。いつもべったりいないほうが良いのかな、、、。横浜っ子の二人が携帯の電波も入らないような北国にやってきて三人の息子を育て、いろいろな苦労をして、私より年下であるけれど尊敬するところがいっぱいある。
似たもの夫婦というけれど、思うに、同じような精神レベルの人間同士でなければ一緒にいられないわけで、みゆきさんにしたって最初はふるさとが恋しかっただろうし、子供達だって都会では考えられないような不自由もあっただろうし、でもそういう不便さや湧き上がってくる不満を、日々の暮らしの中で何か楽しいもの美しいものに転換させてきた現在なのだろうなぁ。

青森で闘病生活をしている高坂一潮さんにやなぎ君と二人で会いに行くのも三回目で、同じ唄うたいという、そして何回か楽しく愉快なツアーをした仲というだけの友人であるけれど、一潮さんに会いに行くことは私にとって「待ってるよ、それまで頑張るからね」という、エネルギーをもらう時間でもある。

宮沢賢治ゆかりの花巻の大きな温泉につれて行ってもらった夜、やなぎ君の家の玄関先でみゆきさんが小さな蛍をみつけてすばやく両手のひらに包んで渡してくれた。蛍をそうやって手にしたのは初めての事で、みんなで、そぉっと歓んだ一瞬だった。絶対に都会では手に入らない贅沢の瞬間。

東北ツアー
一人で唄わせてもらっている八戸の佐々木邸。共子さんという年齢不詳<私よりずっとお姉さんだけれど、私よりずっとカワイイ)がホステス役で、いったい何処で買ってきたの・というようなイブニングドレスのキラキラなのを着て
なんでも東京のシブチカのお店らしい。。。。買いに行くだけでも凄いパワー。ご近所の皆さんが集まる。お互いに元気でいることを褒めあうような会だ。だから私が少し痩せていることを心配して下さる。
佐々木宅の隣にあるのが、明治時代からの旧い旅館「新むつ旅館」此処に泊まらせてもらうのが楽しみの一つでもある。嘗ては楼閣であったという、、それだけでワクワクする場所だけれど、旧くなって修理するために募金運動をしているそうだ。いつまでも此処に在ってほしい。

奥入瀬の「ひめはうす」からはやなぎ君の車で。今回は昼間唄って、夜はひめはうすのオーナーの漆戸さんがセッテングしてくださり十和田市内の「ハミングバード」というお店の二本立てになった。ありがたいことだ。漆戸さんの
なんとか私たちに少しでも、、という気持ちが伝わる。
大好きな夏の奥入瀬渓谷の道を往復する。
ハミングバードの工藤さんも音楽が好きな人なのだと、お店に入ってわかる。
初めての店もドアを開けたときの匂いがあるのだ。映画も好きみたいだ。
そうそうひめはうすの漆戸さんはカメラマンでもあり、私の10月11日のコンサートのフライヤーの写真はこの夜と和田ハミングバードの店の隅で撮ってもらったものだ。私の気に入っている写真のひとつ。

その後、花巻せがわ京染め店、この場所でなければ会えない人達にまた会えた。しかしせがわさんのところで唄わせてもらうと、夜が長い〜〜
みんな豪傑、そしてあまりにもお酒が美味しい!おいしいからうかうかしているとすぐなくなってしまい、私は焼酎が飲めないので日本酒がなくならないように、、、とかなりサモシイ目つきで皆さんの飲みっぷりを眺め、でもまだ旅は続くので一人早めにお休みなさい。翌日は気仙沼のボルセッタ石川という写真館でのライヴ。気仙沼といったらいろいろ食べたいものがあるけれど、ぐっと我慢でやなぎ君と帰宅。
東和町「カフェほうほう」オーナーの溝渕さんとももう6年近いおつきあいになって、もちろんやなぎ君の紹介だったけれど、溝渕さんは昔「新譜ジャーナル」という音楽雑誌の編集にかかわっていたり、サーカスというバンドの仕事をしていたり、つまり東京の人であったのが、奥さんのふるさとで今は地元などのイベントやもちろんお店も奥さんと二人営みながら、毎日唄っている方で
今年も御世話になった。お客さんは少なかったけれど、終わってから音楽の話をしながらささやかに振舞われるご馳走をいただくのは、ただ騒ぐだけの打ち上げとはまた違い、ふっとアイディアが浮かんだりもする。
やなぎ君との旅はこの夜で終わり、もう一晩御世話になり宮城に行く。

宮城の栗原市の武田邸もこの数年でずいぶんと御世話になってしまっている。
何しろ自宅をお借りしてのライヴ、奥さんが一番大変。
初めての時は気が引けて、申し訳ない思いのほうがあったのに、次の時にはすっかり家族のようにさせてもらって、しかし、奥さんの明美さんも言っていたけれど、「慣れとうのは怖い」そう、そのとおりで、あまりやりすぎても、会いすぎても良くない、適度の距離が必要で、そんな仕切りなおしのようなライヴであったような気がする今年。長男の直人くんの弾くピアノが好きで、なんともいえないα波が醸し出されてくる。彼は無口だから音に込められた何かが響いてくるのかも、、。そして栗原家ライヴではスペシャルなことは、私のゴリゴリの体を丁寧にマッサージしてくださる峰子さんという素晴らしい女性がお客さんとしていらしてくれる。ケアマネージャーとしてのキャリアをもってバリバリと栗原家の妻殿同様に働いていて、さぞかし自分自身が疲れているはずなのに、私は我儘にも彼女の癒しの手を待ち構えている。
唄い終わってみんなさんが良い気分になっているスキに化粧を落とし、二階のベッドで峰子さんのマッサージを受ける。至福の瞬間、、、というのも、触ってもらって何分も経たないうちに私は夢の中だったのだ。その後、東京の10月11日の新大久保のコンサートにその峰子さんがいらしてくださっていて挨拶されたのだけれど、まさか宮城から?予約もなしで?と咄嗟のことで、そのままお礼も言っていなくて、ずっと気になっていた。この覚書を書きながら
武田さんにたった今電話してそのことを話したところ。

東北ツアー最後は、盛岡。盛岡はあの懐かしいフォークジャンボリーの印象が刻み付けられている。あの時は一潮さんも元気だったし、中川五郎さん、斉藤哲夫さん、三上寛さん、シバさん、そして地元のアーティストの人たちも沢山いて知り合いになった。
去年はよしだかずおさんというおなじ「よしだ」で七夕ライヴだった。
今回は「カコちゃん」と一緒に唄った。カコちゃんはタクシーの運転手をしていて大きな体に優しい心、場所は昔は八百屋さんであったという文化財にも指定されている建物で、板張りの床はひんやりとしているのだけれど、クーラーがないのでみんなお客さんは団扇を持って聴いてくださる。音響はいつもの
櫻井夫妻、櫻井さんの音の録り方は独特で、マイクも素晴らしいのでリハーサルはほとんどお任せになっている。
水の都と言われているように、街のいろいろな場所に水場があり、今でも共同で使われている。八戸の旅館もそうだけれど、旧くて善いものをきちんと残すにはお金も必要だけれど、人の心根が荒れてくると街も変わる。鶏とたまごではないけれど、バランスというのが大切で一番難しい道なのかしら、、、と、
移動しながら通り過ぎる景色を心に焼き付けながら。。。。

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2009年06月30日

土砂降りのち晴れ

ゲリラ豪雨などという名前がついてしまった最近の突然の大雨。日本全国で起こっているけれど、特に東京のような自然現象に無防備な場所の豪雨は悲惨だ。私は長靴を履くのが好きで、ちょっとでも雨が降ると花柄の緑の長靴を履く。北海道ツアー用には私の靴の中で一番値段の高いゴム長を履く。しかし
都留からの足で降り立った巣鴨、私はパンプス。そして駅の外は土砂降り。
駅で私を待っていてくれたまさえさんと、どうしよう、、となって、なんでも
「手風琴」というお店は駅から3分くらいのところ。でも歩けない、歩けるけれど楽器が濡れてだめになる。なんと徒歩3分をタクシーで豪遊した。このまま降ったら帰りもタクシー?いや、それよりもお客さんはもっと大変。どうか雨が上がりますように。
手風琴というお店、初めてだったけれど、結構いろんなアーティストが唄っていて殆ど知っている人たちで、マスターはとても紳士的で、着いてすぐに音ノチェックをして終わった頃にこの夜を誘ってくれた鎌倉研さんがやってきて、私とまさえさんは近くのエスニック料理屋さんへ。都留で吉田うどんを食べ損なったので麺がいいなぁ、、フォーを頼む。そうこうしているとusagiさんがやってきて3人とも違うフォーを頼んだ。温かいフォーは美味しいのだが、麺がどんどんふやけてきて食べても食べても減らない、だから一生懸命食べなくてはいけないのだ!とお店のマスターに帰りがけに言われた。米の麺も好きだ。
さぁ、鎌倉研さんとは去年「風に吹かれて」で初めて一緒にやらせてもらって以来だけれど、今回はそこに生田敬太郎さんや、瀬戸口修さんが遊びに(すでに出来上がっている二人)来ていて、奥の関係者席はおじさんのはしゃぎ場の状態だった。風にふかれてのときは私が先に唄ったので、今回は順番ということで研さんが先。
45分くらいね〜と言っていたけれどそんなわけは無い、だって研さん目当てのお客さんが殆どで、何か新曲ならぬ新ネタを楽しみにしているのだ。
何度か研さんとは会っているし、そのキャラクターも知っている、初めのころは「ネタ」で笑わないように我慢していた、、、というか彼の本当の優しさを私が理解していなかったのだなぁ、、とまた改めて思い知らされた夜になったのだ。
1時間ちょっと、唄はオリジナルもそして友達の唄も、それから上質の歌謡曲も全部で6曲?くらい?彼の場合は話しの合間に唄がある。
その話は、やっぱり我慢していても普通にとってもオカシイ!笑っちゃう!
彼でしか出来ないエンターテイメントなのだ。
どうしてもムツカシイ顔して唄うイメージとそういう空気の店と、そういう歴史のなかで『せま〜い世界』で育ってきて大きくなって、なんだか若い頃より子供になっていく私たちはどんどんこだわりがなくなってきて、良いもの、本物の枠もスッゴクひろ〜くなってきて、そしてこの夜の鎌倉研さんはやっぱり私が逆立ちしても考えられないギャグでお客さんを楽しませていた。もちろん大笑いした私。
二瓶さんというサックスプレイヤーの方がいらしていたので、私は「Cheek toCheek」に参加してもらい、「今夜彼女は台所を棄てた」と「She said NO!]には敬太郎さんのハープをお願いし(すっごかった♪)
最後は瀬戸口さんもみんなもでステージはいっぱいになって『風景」を唄った。満員のお客さん。ゴキゲンのセッション、豪華版!
そしてお客さんがお店を出る時には、一時的に雨はやんでいたのが何より嬉しかった。
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山梨の緑の中で

中央線で新宿から1時間、大月の駅に高部さんが迎えにきてくれる。
これで四回目の都留でのライヴ。
最初は高部邸が改築されたのでそのお祝いライヴだった。それから町のお店で、そして去年は元ちゃんのタイコも入ってまた高部邸にて。高部さん(今は邦広さんなので邦ちゃんと呼ぶこともあるが)とは、甲府のハーパーズミルというカレー屋さんでマスターの坂田さんは今では有名なギターつくりさんでもあるその場所で私が唄ったときに会って以来だから、もう6年目になる。
都留でもと言ってもらって、だいたいゆっくりと高部邸にて休んでゆったり唄わせてもらって、それから結構若い地域の人達と打ち上げを楽しみ、夜はシーンとした高部邸の和室に御世話になり、翌日、お母さんの手作りのお味噌で和えた畑のキューリや梅干や自家米をいただいて、それでも帰りには「吉田饂飩」〜これはなかなかウドンと表現するには難しいくらい個性のある麺でその吉田うどんの有名店(美味しいところ)で〆て帰るというのがパターンになっていた。
今回は、いつも聴きに来てくれている写真やさんの伊藤さんのお店が素敵なスタジオになったということで、まずそのスタジオで昼間のライヴ。女性に優しい時間帯。明るいスタジオ。短めででもいいよと言われたけれど、やっぱり2時間近く唄わせてもらい、終わったのは6時近く。この場所は、素敵なソファやテーブルがあって、コーヒーも美味しくて、近所の人がひょっこり立ち寄れるサロンみたいになっている感じがした。地元に育った人がお嫁さんを連れてきて故郷で頑張って、楽しんで、、、お嫁さんたちもこれがみんな元気で明るい!!いろいろ苦労は絶えないはずだけれど、仲良しを沢山つくることは大切なことだ。邦ちゃんもそういう仲間の中心的存在でこの地域で頑張っている。
伊藤家のママがちゃちゃっとパスタやレタス巻きを作ってくださる。子供たちもやってきて今夜の晩御飯になる。ご馳走様!韓国味噌の話になったかと思うとフェァリーカード(占いカードのひとつ、私はこれ好き、前向きで)のはなしに飛んで行くお嫁さんパワーも大好き。

さて今回は凄いのだ、夜の部があり、それは街中のBar「アクアヴィータ」
このお店も隠れ家のようにビルの一番奥にあるのだけれど、木の床が気持ちよい。小さなお店一杯にお客さん。なかなか静か。。。でも最後は「Yhey」やった!音楽が好きな人が集まってくれた。企画をお願いして自分が行くのは簡単なことだけれど、お客さんを集めるのは並大抵のことではないのだ。そういう苦労をしてくださる方が無かったら私など旅は出来ないし、やったとしても悲惨な夜の連続だ。なかには義理で来てくださる方もあるだろう、、でもそれこそ呼んでいる人は気を遣わねばならない。
今回の一日二回の都留のライヴは、高部さんが自分で納得する人たちに声をかけてくれているのがわかった。
そういうライヴは後味がよいのだ。感謝だ。

翌日、大月駅で高部さんと電車がくるまでお茶をいただき「吉田さん、アリガトウの反対語なんだと思う?」  単語と考えるとなにになる?
「あのね、アタリマエ」 本当だほんとう。そうなんだよ。
世の中は「ありがとう」で出来ている。

たった一日一晩だけの旅行は、さりげなく優しい働き者の人達との時間だった。

中央線に乗ると、すぐに電車がとまった。小金井のあたりで人身事故だという。1時間遅れで新宿に着く。こういう事故がアタリマエの都会のホームに降りて、夜にうたわせてもらう巣鴨に向う。
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予備校にて唄い、そして京都の奥深さは路地裏に続く

河合塾という全国展開している予備校の京都校の特別授業で唄わせてもらった。
生徒さんたちには受験勉強の時間じゃないわけだから土曜日の夕方にわざわざ唄を聴きに、それも今時の流行のアーティストならともかくも、名も知れぬ自分の親より年取っているオバサンの唄,、、どんなことになるやら、、、。
しかしそれでも10人以上の若者と、昔若者のだった方々が同じくらい集まってくださり、一時間半の「授業」が始まった。
不思議なもので、教壇に立っているとそんな経験が無くてもなんとなく「センセイ」みたいな気分になってくる、、、コワイコワイ、、「センセイ」にはならないぞ!選曲は普段より硬かったかな、、でもいつもどおりにお喋りもした。ちょうど画家の春日hるなさんから彼女のブログ日記が届いて、その中の「青年」という詩と「広い島」というのも朗読させてもらった。
私が彼等の歳の頃には、50過ぎてギター抱えて唄って喋ってくれる人はいなかった。ちょっと年上にちょっと自分よりも音楽や文学や社会のことを知っているお兄さんやお姉さんがいてそういう人たちが何処其処にくると知れば、家に内緒で遠い道のりかけてコンサート行ったり、喫茶店でそういう人たちの話聞いたりして帰りにレコード屋で教えてもらったばかりの歌い手のレコード買って、古本屋でよくもわからないけれど本も探した。
40年も経つとこんな世の中になるなんて考えてもいなかった。この日来てくれた彼等はそれでも静かに唄を聴いてくれた、はるなさんの詩も聴いてくれた。お金はないところは私たちのあの時代と同じだ、CDを買ってくれはしなかったけれど、話しかけてくれた青年達がいた。来年は東京の大学に行くからまた会おうとか、ローザ・パークスの話をしてくれた女の子もいて、それだけでも嬉しかった。アンケートには殆どの学生達が「日頃、勉強だけの生活でライヴなんて 暇もなかったから息抜きが出来て嬉しかった」という内容。
やっぱり沢山ではなかったけれど良かった。企画してくださった佐々木さんと応援してくださった皆さんありがとう。
佐々木さんとは同い年で、そういう意味ではいわゆる、ちょっと遅れてきた世代としてずっと青春時代から今までその位置を頂いて(世間から?)きて、あの時のお兄さんお姐さん達が続々と還暦、退職、とかいう時代がやってきて、
それこそ、昔は手の届かない存在だったような人達ともあまり年齢のこだわりなく会ったり出来るようになって、面白い。
私にとって古川豪さんというアーティストもそういうお兄さんの存在で、しかもレコードでしか知らないお会いしたことも、生の演奏も聴いたことのない人と一緒のライヴを佐々木さんが翌日、蛸薬師の路地裏のファルーカでやってくださった。
豪さんはバンジョーを弾かれることは知っていたし、好きな曲もあたったけれど、やっぱり本物にお会いするのは嬉しい。昔はツアーもされていたようだけれども、家族のことや、いろいろな考えがあって今はそれほど活動をされていないらしが、滑らかな声で市井の人達のことを歌う「フォーク」の人だ。
そしてバンッジョーのストラミングの美しいこと!これは人前でやっていなくても、日頃触っていなければ出ない音色じゃかいかと思う。滑らかで唄のストーリーに寄り添っていて、商店街の福引の唄も味噌やの唄も紙芝居みているようだ。
京都から帰宅すると早々にメールを頂いた。また何処かでゆったりとご一緒させてもらいたいな。
ファルーカには遠くからも沢山お客さん来てくださった。ありがたい、お店のビールもなくなりそうだった。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記