2010年03月04日

2009年11月の九州

この数年毎年同じ頃に九州の短い旅をさせてもらっている。
熊本の宇土という町の「カフェレストラン・ポケット」に連れて行ってもらったのはやはり熊本で古くから沢山のアーティストを招いて自宅を開放して<自宅といっても1階は完全にライヴができる広間にしている)「紙ひこうき」という名で活動をされている本田さんとそのパートナーのふうさんだ。紙ひこうきを紹介してくれたのは、今、青森の病院で闘病している高坂一潮さんだった。一潮さんはこの熊本の畑の広がる中にポツンとある「紙ひこうき」にシバさんと行ったそうで、そうやって歴史を聞いてみればそれはもう沢山の人達につながっていくのだけれど、熊本には音楽を愛していてしっかりと活動している人たちが凄く多いことをはじめて「紙ひこうき」に行って唄ったときに知った。なんといってもギターの達者な人達がそれぞれに素晴らしい演奏をしているので、私が唄った後の打ち上げでノックアウト状態だった。そういう人たちが私のステージを聴いていてくださったのかと思ったら申し訳ないくらいだった。沢山のアーティストから慕われていたふうさんは着物の生地で素晴らしい服を創作される。そのふうさんの体調が良くないときからしばらく「紙ふうせん」には行けずに、その少し前に本田さんが音響機材を積んで私のツアーを組んでくださり宇土の「ポケット」に連れてきてくださったのだった。
今はふうさんもお元気になっていられるようで、近いのに今回は顔を見に行けなかったのが残念だった。週末を利用しての三日間の旅で、ただ唄うだけで移動していくのが悔しいときがたくさんある。どうしても逢っておきたい人や、行っておきたい場所もある。時間があっても心に余裕がないとこういうふうになる。もちろん移動に時間がかかるから、もう少しゆっくりとしたスケジュールをつくることもこれから絶対に必要だ。こんなに沢山の人たちと出会っているのだから、その場限りでは、これからの時間が薄っぺらくなってしまう。
この次はライヴのためだけでなく熊本の大自然の中をバスに乗って、そして歩いてまたあの畑の真ん中の小さな音楽の館に行きたい。

今回は、カフェレスト・ポケットが初日だ。オーナーの門内夫妻は若々しくて働き者。ご主人は昼間は会社務めをしてその間は奥さんの里美さんが切り盛りをしている。今は息子さんも手伝っていて、界隈のお客さんや、仕事で通りがかったときに必ず寄るお客さんで朝早くから、そしてランチ、夜は少しお酒も飲めるようになっていて憩いの場所という空気が満ちている。
ポケットのライヴには豪華なお弁当やなどの食事のメニューがついている。
お客さんはそれを食べてゆっくりしてからライヴを楽しむ。リハーサルのあいだに予約をしているお客さんの名前が紙に書かれてそれぞれのテーブルに置いてあって、こういう心遣いは招くほうも招かれるほうも両方が気分が良いものだ。お客さんを集めてくださるその努力に応える気持ちが高まっていく。
少し日常とは違う時間を!という心だ!
この日もテーブルについたお客さんがそれぞれにゆっくりと食事をしたりお酒を飲んだりしている間にステージが始まった。細波(さいは)さんという男性がしばらく唄われて、そのあと私もゆっくりと唄った。10月11月は唄う曲順はあまり変えていなかった。いつも聴いてくださる方もあるが、はじめてのお客さんもあるのだから、曲は変えていなくても、話すことは変わる。いわゆるネタというのはないこともないけれど、それより最近の出来事やとても身近なことや今感じていることを話していることが多い。もちろんその土地で思ったことや、思い出話もある。20曲くらい唄うつもりでも、気がつくと15曲くらいで2時間近くになってしまったり、やはりライヴは毎回違うものだ。
宇土には、昔エレックレコードの時代に会っていたMさんがいる。彼女がご主人の故郷に家族で引っ越してきていてメールを送ってきてくれて、35年近くの歳月がたった3年前にこのポケットで再会した。ひとめで当時の面影がみえたときは嬉しかった。
この夜もご主人と一緒に徒歩で随分時間をかけてやってきてくれた。
打ち上げの席で彼女とゆっくりするのは今回が初めてのような気がする。共通の話題は当時のエレックのこと、佐藤公彦さん(ケメ)が唄うことを本格的に再開してお互いに凄く嬉しいことなどを話して夜が更けた。
やっぱり、今度は熊本にもう少しゆっくりしたい。。。翌日は早朝に高速バスで九州の阿蘇を越えて宮崎まで行くのだ。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月25日

それから

早起きの「ふう」には美味しいコーヒーの香り。
朝から店の前の道には沢山の出店。この日は犬山の手作り市の日で、地元や
いろいろなところから手作りの物を通りの両側に露天で並べて寒いけれど冬の日差しが時々射すお祭りが始まっていて、私も朝のコーヒーを頂いてから通りで物色。その後どうしても髪の毛をシャンプーしたくて、まりこさんに駅前の美容院を教えてもらって出かける。
旅のときに私が困ることのひとつに、この長く伸ばした髪のこと。狭いホテルのお風呂では温まりながらシャンプーが出来ない。バスタブに浸かりながらだとお風呂のお湯がシャンプー風呂になってしまって気持ち悪い。それとドライヤーが小さいと髪を焦がしてしまうことがあって、少々贅沢なのだけれど、時々知らない土地の美容院に行くことがある。犬山の駅前にある紹介された美容室はとってもしっかりした感じのオーナーの女性がテキパキと若いスタッフに指示をだしていてとても繁盛していた。私の担当になったのは20代前半の青年で、シャンプー台で話をしていたら、出身が沖縄で那覇の国際通りの近くでお父さんお母さんが小料理屋をやっているという、、、。ふ〜ん、国際通りは観光客値段の高い店が多いから私はあまりよく知らないけれど、「小桜」という小さなお店を友人から紹介されて何度か行ったのだけれど、ライヴが終わるのが遅い沖縄ではなかなか営業時間にいけないのよね。。。と話したら、
「えっ!僕、その小桜の息子です」というではないか!!!なんで、那覇から犬山に?聞けばこのサロンのオーナーが那覇の美容学校にスカウトに来たのだそうだ。面白い縁だなぁ、、。「今夜、ふうさんでライヴがあるけれど時間的に無理よね?」と聞いたら行けるかも知れないと言うので、無理しないでね、来月沖縄に行くからお店に必ず行くね〜ということで、シャンプーでスッキリして「ふう」に戻るとおでん目当てのお客さんでお店はてんてこ舞いで、私も隅っこでおでんを頂き、奥の部屋で御昼寝。ふすま一枚でお店なので、人の話し声を聴きながらウトウトするのも気持ちよい。。。ごめんなさい、みんな働いているのに。。。
「ふう」では今回はマイクを使わずに唄うことにした。充分聴こえるはずだし
私はこのお店の響きも好きだから。それにちょうどお祭りのイベントでPA機材が出払っていたから忙しくならずに済んだ。おでんは完売だったそうで、よかったよかった。

ライヴに来てくださったのは、なんと全員男性!凄いぞ!女性は私とまりこさんだけ!みなさんありがとうございました。
いつも来てくださる方もあったけれど、初めての方もあり、静かな曲が多かった。小川さんのリクエストは「つらいときはもうごめんだ」と「道ばたでおぼえた唄」小川さんはトラッドが大好き。
半分くらい唄ったころに息を切らして入ってきたのは、シャンプーしてくれた青年!急に平均年齢が下った!サロンのオーナーからのお土産まで持ってきてくれた。
二年ぶりの「ふう」(小川さんと二年に一度くらいにしようねと決めている)で、マイクなしで丁寧に唄わせてもらえて本当に楽しかった。
昼間の戦争状態でさぞかし疲れているだろうまりこさんが、打ち上げの用意をしてくださり、半分以上の人が残って美味しい肴と話題で静かに盛り上がった。シャンプー青年もオジサンオバサンの中に自然に入って楽しくいてくれて
良いなぁと思った。今時の、、、なんていうオジサンオバサンはこの夜この
「ふう」にはいない。みんな未だに青年ばかり。
宴も早々にした。そして大好きな大きな小川家の大きなお風呂を使わせてもらって、翌朝早くに、京都行きの高速バスの乗り場まで小川さんに送っていただき、愛知県二日間の旅は、質素で贅沢な時間だった。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月24日

伊保木フォークジャンボリーで始まった2009年11月

11月1日、前日の快晴からうって変わって雨が降り出して、会場は野外だから、客席にシートでテントを張ったり、機材を守ったり、力仕事を皆さん総出でやっているところに私は宿から到着。お客さんもどんどんやって来る。
遠いところからも集まる。岡山、広島などで会った人たちも、そして中津川で会った人達や、もうこうなると顔と名前などはわからないけれど、今まで各地のフォークジャンボリーなどで唄わせてもらったおかげで「こんにちわ!」が言える。雨はどんどん降ってくるけれど、フォークジャンボリーは決行!
沢山の表現者、おのおの15分から長くても25分くらい。笠木透と雑花塾の皆さん、メンバーの山本幹子さんの唄は心の奥に届く響きがあって個人的に好きだし、雑花塾のお一人お一人がそれぞれ笠木さんの創った言葉に曲をつけているので、それぞれの想いが唄となっているところが、その名も雑花のようで
ちからがあるなぁ、、と思う。飛び入りというかフーテナニーというかたちで一曲二曲ほど唄う人達も素晴らしくて、瀬戸内海田ノ浦原発反対の運動をしている若い人たちも参加していて、彼等は実際に祝島をシーカヤックで毎日監視をして反対運動を続けているそうで、私は彼らの話をこの日聞くまで、この問題を詳しく知らなかったから、それは生々しいメッセージだった。私が唄った後にその中の一人のノブくんという若者から握手をされた。雨の中のお祭りで知ることもある、こんなに情報が発達しているのに、この雨の瀬戸内の丘の上で。
マウンテンゴリラのみなさんは九州から来ていたし、私が去年はじめてこの場で衝撃を受けたバンドビッグストーンは屋久島から家族も連れての参加だ。
ビッグストーンの「OH!ガンジー」は去年はじめて聴いて芝生で寝転んでいた私をすっ飛ばしてくれた唄だった。
赤木一孝さん(あかべい)の出番の頃は雨が本降りになってきたけれど、お客さんは傘やカッパで装備してしっかりと聴いている。私もコートのフードをかぶって木陰などで観客になった。中川五郎さんも新しい唄を創って参加だ!五郎さんは本当に唄を次々につくってそれを心身ともに極限状態までもっていって唄う。長い長い唄なのに歌詞など一切見ないで唄う!素晴らしいといつも思うのだ、打ち上げ以外は。。。それはお互い様でお酒も敵わない素晴らしき肝臓!。。。尊敬するフォークシンガー。
五郎さんのあとに私が唄う。その間20分くらい雨が弱くなって明るくなった。なんだかそれがとても嬉しかった。気持ちが天に届いたみたいだったけれど、またすぐに雨は降ってきた。2年続けてこのステージに立たせてもらって
いろいろな想いが溢れてきた。一言では言えない。ただ、私がこうしてみんなそれぞれの強いメッセージを抱いて集まってくるフォークジャンボリーに参加させてもらっていることはとても大事なことだったし、勇気のいる場面もいくつかあった。「根っこのない漂うような人間になったらいけないよ」と何処からか聴こえてくる場所なのだ。
高石ともやさんのステージが終わり、その後、なんと村崎太郎さんと次郎くんが登場した。次郎くんは日本猿、そうあの太郎次郎のコンビ!
なんでこの場所に?と思ったのはその本番のステージでだけで、その後太郎さんは次郎君とは別にみんなと唄ったりしていて、これはきっと深いつながりがあるのだなぁと思った。その後打ち上げで偶然隣同士になった太郎さんからご自身のバックボーンを話してもらった。ここで会わなければ多分長い間テレビやイベントで頑張っている芸能人としての太郎さんとお猿の次郎くんとしか知らなかったと思う。
本も出版されていて、映像も撮っているようで、私はまだ本は読ませてもらっていないのでこの話はここまでにしておくし、私よりももっと詳しい人は沢山いるだろうから。
あたりが暗くなって、照明がともされて、表現者達はフィナーレでステージに、しかしこの伊保木フォークジャンボリーでは全ての人が参加者である、という気持ちになれることだ。
私は、中心者の方々が、もっと若い人達や、いろいろなジャンルの表現者の人達ともっともっと交流をしていったらいいなぁ、、とおもった。
時間はすぐに過ぎて、「世間」は無責任に変わっていってしまうから!
私もまたこういう場所で表現できるように、進んで生きたいとおもった。

雨があがったころに、上田さんの広いリビングに溢れる老若男女!
そこからは、祭りのなごりの夜。そして大食大酒漢の胃袋を支えてくださった
お母さん隊に心から感謝したくて、最後に上田さんの奥さんにリクエストをして、唄っていただいた。可憐な唄声、本当にお疲れさまでした!

翌日はそれぞれに伊保木から広島へ。久々に御世話になる楽座。
楽座は広島の繁華街のビルの地下にあるのだけれど、オーナーの石澤さんはお店をはじめるまでは広島を中心にイベントを主催したり請負をする大きな会社にいたのだが、奥さんと二人三脚できちんとしたライヴハウスをして、自分のラジオ番組やギター教室もやっていて、2006年には、斉藤哲夫さんが呼びかけてはじまった「フォークジャンボリー」を広島でも赤字覚悟で受けてくださった。
ホテルでやすみ、リハーサル、石澤さんは私の楽器も声もちゃんとわかっているから、本当に気持ちの良いリハーサルで、すべてお任せしている。
楽屋で一人になる時間もあり、それは長年のコンサート運営をした人のプロの
心配り。そこに奥さんの柔らかな(こういう仕事をするとはおもってもいなかったそうだ)笑顔がちょうど良い空気をつくっている。
連休の中日であったけれど、皆さん唄うにつれて盛り上がり、音楽好きの人達が多いから沢山唄おうと思ったけれど、沢山お喋りもしていた。去年はちょうど8月5日にライヴをして、翌日私は平和式典に言ったことなどを話した。
店のカウンターの横には石澤さんとジャクソン・ブラウンの2ショットの大きなスティル写真があって、それだけでもどういう人たちが集まる場所かわかる。お客さんが帰ってから、近くのお店で軽く食事をいただく。前に始めてのときだったと思うが、お好み焼きをお好み村というビル全体がお好みやさんばかりというところで、夜中にガッツリと本場広島をいただいたときは、その量に気持ちもおなかもビックリしてしまった。私がはじめての旅できっと歓ぶと思って連れて行ってくださった。そんな話やら、なんだか最近亡くなった人の話とか、でも今度もジャクソン・ブラウンは行く!!!とかそういう話に、奥さんはニコニコと頷いていた。
東京羽田に翌日着いて、ライヴは3回なのにやけに長い旅をしていたような気がした。すっかり寒くなっていたのだ。
灯油を買わないと大変だ!車を手放してから一番困るのがこの灯油確保だ。
家の前まで売りに来る灯油やさんがいるのだが、旅に出ているとタイミングが合わなくて、近所の友達の車で灯油プラスランチという久々のご近所ライフをした。主婦友はランチにも詳しい。こういうことでもしないと私は普段の食生活と精神状態が危険になる。なんでもないことなのだが、同世代の女同士で仕事とは無関係な、でも前向きなお喋りは非常に大切だし、食べたものが全て栄養になるような気もする。昼間に飲むノンアルコールビールって以外に美味しい。
11月7日は亀有Kidboxでギタリストの萩原信義さんとのライヴ。亀有というのは遠い。でも乗り換えが少ないので、私でもきちんと行ける。ノブさんとはいつも一緒にと思いながら、年に数回も出来ないでいた。私のダイスキなギタリスト。ノブさんそのもの!というギターの音色と引っ張りかたは、ワン&オンリーだとおもう。それからノブさんは人のことを褒める。ライヴに招待したりすると、サポートミュージッシャンを「いいねいいねあの人いいね」とはしゃぐように聴いている。人のことを褒めるひとは好きだ。お世辞ではなく。
そしてヤキモチはいやだ。
もっとリハーサルをしたいのだが、時間が合わなくてこの日もお互いに譜面を持ってきて会わせてみたのだが、本番ではお互いに曲順も無視してやりたい曲を続けた。オーナーの鷲見さんが、ダルシマもギターも用意してあるから手ぶらできてね、と言われたけれど、やっぱりギターは自分の弾きなれたものがいい。ただ、ダルシマは1本置いていてくださると本当に助かる。どれだけ体も気分も軽いか!!鷲見さんのダルシマは小ぶりだけれど、素朴な音でお店のスペースにちょうど良い音。私以外でも弾く人が沢山出来て音が鳴るようになるかもしれない。
ノブさんは彼が高校生の時に淺川マキさんのところに行って、その場でギター弾かせてくださいと強引にメンバーになった情熱少年だった。
初期のマキさんのライヴで爆発しているノブさんの音が沢山ある。今のノブさんのギターの引っ張り方、間のとりかたはマキさんの唄から来るものもあると思う。そういうギタリストと大好きなマキさんの「少年」を唄わせてもらった。途中でノブさんも唄う。「ホントに泣きたいくらい」だった。

終わってから、オーナーが用意してくれたおでんなどをいただきながら、今度はもっとリハーサルして、あとマキさんの唄も少しうたいたいなぁ、、、などとゆっくり話していたら、もう終電の時間。遠いなぁ亀有。。。。。私の家が遠いのだけれど。。。。

14日は名古屋の「パントマイム」へ。一年に一度か二年に一度か御世話になる。
ここは徳川美術館の近く、大きな交差点の角にあるから目だって良いはずなのだが、その佇まいがなんだか、目立たないように目立たないようにしているみたいに思うのは私だけかな、、。
マスターは真野さん、そしてママというよりパートナーの直美ちゃん。
中ではいつも面白いアーティストの個展や展示、小物なども販売したり、いらなくなった衣類をフリーボックスに入れてある。
そして、お料理も飲み物もとても美味しい。
この日もそのフリーボックスから直美ちゃんが素敵なシルクの巻きスカートを私に渡してくれた!とても良いもので、すぐにでも着たくなった。
ライヴメニューというのをあらかじめ作ってあって、それも季節感があって美味しいのだ。喫茶店だから基本的にはあまり沢山お酒は売らない。
音響は小さなアンプにマイクとギターを繋いで、でもそれがこのお店にはよく響くのが不思議。静かに静かに唄を聴いてくださった。
ライヴメニューで残ったお料理などを美味しく取り分けていただいて、早めの打ち上げ。朝が早い喫茶店だから夜も早い。
この夜は、翌日の犬山の「ふう」のオーナー小川さんが車で犬山の自宅まで連れて行ってくださり、お風呂をいただきおやすみなさい。
犬山は町の「手作り市」の前日で、静かなのにどこか祭りの前の夜の気配がした。「ふう」では大量のおでんを売るそうで、奥さんのまりこさんがおでんの仕込みを深夜までやっていた。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月23日

武生から美浜 そして西へ

ヒサさんは絵葉書を主につくって売っている。しかし素晴らしい絵描きさんであるし、詩人でもある。ふるさとは小浜ということで今回も小浜でコンサートをしたいと言ってくれていたのだけれど、叶わずに、ちょうど彼女の作品展をしている美浜の「森のめぐみ」という木作り二階建てのカフェで唄わせて貰った。初めての場所だったし、お客さんはヒサさんの絵が好きな人や、お店のお客さんが美味しいケーキやコーヒーと一緒に私の唄をはじめて聴く人が殆ど。
曲目は前日とは少し変えてみた。それでも20曲。早めに始まったけれど外は肌寒く秋は深くなっていて、「森のめぐみ」の庭は少し湿っていて良い匂いがした。
車で武生まで帰る道すがら「何食べよう。。。」と、そらちゃんが切り出した。
私が武生で一緒に食べていなくて、そらちゃんがダイスキでお勧めのオムライスがあるのだが、日曜日の夜、ギリギリでその食堂に到着。オススメ通りにサッパリといていて美味しかった。ラクガキ屋で唄うアーティストはみんな好きな食堂らしい。食堂なんだけれどちいさなお座敷があってそれもとても狭いからみんなで体を寄せ合って食べるのがとっても楽しいのだ。

短い北陸福井の旅、何処にも寄らずに週末を過ごして、好きな人達と静かに過ごせて心が解けてきた。
小さい友達も増えた。

2泊してホテルをチェックアウトしてから、冷たい雨が降り出したけれど、
そらちゃんが学校に行っている間にもういちどラクガキ屋に行ってそれからヒサさんとお昼を食べた。少しの間だったけれど、お互いに話したかったことをはなした。
武生のホームまで見送ってくれたヒサさんとビニール傘が目に焼きついている。

10月30日は山口湯田温泉の「カフェ・ド・ダダ」店の名前がラクタイムといっていた頃にはじめて降り立った湯田温泉の駅。まったく変わっていないといつも思っていたが、駅前の古い喫茶店がなくなっていたり、中原中也記念館の向かいにあったうどんやさんが引っ越して、中也を知っていたといううどんやのおばあさんはもういない。東京のようにガラガラと様変わりするわけではないのだけれど、やはり変化はある。たった6年くらいのあいだなのに、若林純夫さんが亡くなったし、夫婦デュオのべすぱの二人には可愛い赤ちゃんが生まれているし、名前も変わったダダのオーナー香原さんだけは相変わらずの無口と、時折口から出るのはなんとも香腹さんらしいニヒルとヒューマンが混ざり合った短いセリフ。しかしずいぶん御世話になっているのだ。
そのうちに仲良くしてくれる人たちも増えて、ライヴはそういう仲の良い人達が中心に来てくださる。この夜は吉本あいさんという、とても可憐な歌声の女性が一緒だった。賛美歌のような唄もあったし、アイリッシュを日本語で歌ったりで、彼女のファンの人たちもいらしたし、ダダもいろりお若い人たちも集まる場所になっているのだ。
あいさんと一緒だったから曲数は少し短くしたけれど、10月のステージの曲目は大体新しいアルバムの曲が中心になっていて、ちょっと自分でも変えてみたくなっていた。でも、ツアーの最中に新しいことをするのはなかなか大変なことで、毎日の移動だけで終わってそのまま流されていくと、唄が痩せていくような気になるときがある。それは私が一番いやなことで、きょくのあいだの話も同じだ。しかし、毎回はじめて聞いてくれるお客さんはいるのだから、そのバランスは大切にしたいと思う。
それから、同じ唄でも毎日違うのだ。湯田温泉駅みたいに、気がつかない程度かもしれないけれど。
ともあれ、ダダの夜は吉本あいさんという新しいシンガーにも出会えて、そして待っていてくださる方々もあって、香原さんいつもありがとうございます。
この夜は、小澤由己子さん邸に御世話になる。さすがに夜は冷えて、小澤さんと一緒にスーパーで鍋の材料を買って、私の差し入れのお酒で女二人でゆっくりやりましょう、、、ということに。
小澤邸は広い平屋造りの日本家屋で、長い縁側やアルミサッシではない窓や雨戸、そこ此処に趣味の焼き物や書などがあって、私はとても落ち着いてしまう。しかし一人でこの邸宅を管理するのはさぞかし大変だと思うけれど、お父様からの大事な場所なのだ。
お持たせのお酒に似合うお猪口も自分で選ぶ、お猪口だけの箱があるのだ。
お鍋の用意は由己子さんにまかせてしまって、冷えた体をお風呂で温めた。
山口の内陸は寒いのだ。お風呂を頂くのは本当にありがたい。
女二人鍋、歯にもの着せない由己子さんとは話も弾むがお酒も進む。ちょっと足りないかな〜というところで夜更かしは終わり。
数年前に、由己子さんとあの人間魚雷の島「大津島」に行ったときに彼女がずっと涙を流していて、由己子さんの強さと優しさを会うたびに思う。細い体で
いつも闘っているイメージで、、、またゆっくり飲みたい。今度は2本持ってくるからね。
翌日も綺麗なコーヒーカップで朝食もいただき小郡駅まで送っていただく。
福山まで戻り、光市伊保木の椿窯に行くのだ。
「伊保木フォークジャンボリー」が翌日にあってこの夜は主催者上田達生さんのお宅で前夜祭があるのだ。
フォークジャンボリーは前夜祭から始まる。
私が到着したら、ステージを組んでいる最中だったけれど、サウンドチェックをしておいたほうが良いということで、あっという間に夕方になった。
続々と出演者、スタッフの方々、そして何よりも一番大変な仕事をする奥さんたち!とにかく半端でない量の食事を二日間にわたって作り続けるのだ。
私が行ったときにはちょうど大きな鯖をさばいているときで、私はこういう大きな魚をやっつけたことがないから、上田さんや岡山の尾崎さんの奥さんや沢山の強き女性たちの包丁裁きを見学、その鯖を〆るというのでこれも見学。しめ鯖くらい自前でつくれるようになりたいもの。。。こういうお祭りではそういうことも教えてもらえることがある。特に料理は、つり方を教えてもらってから、家で飽きるほどそればかりつくったりする。
上田さんのお宅の前の道をはさんで少し小高くなった平らな場所がステージと客席になる。全てが手作りで、そのためにステージは組まれ、雑草は刈られる。
夕方からの前夜祭は採れたての魚、野菜、お寿司や、持ち寄りの品々、申し訳ないほどのご馳走。お祭りが始まった。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月22日

まだまだ続く2009年10月

二日ばかり久しぶりの我が家で休んでいたが、それまでの緊張はなかなか取れるものではなかった。
久しぶりに体と声のトレーニングでずいぶんと生命力がついた。体操もやはり一人で家でやったり旅先でするのとは違い、コーチと一緒にするほうがずっと良い。同じ事なのに、客観視してもらうことは大切だ。
この間にラジオ日本の収録「フォーク魂」という深夜の番組。ラジオ日本というのは以前はラジオ関東という名前だった。私がエレックレコードにいたころ一番出演した局だった。飯倉のビルの中は少しは新しくなっていたけれど昔の雰囲気が色濃く残っていて懐かしかった。収録といっても殆ど編集がないので嬉しい。沢山喋ったのにいざ本番を聴いてみるとがっかりすることもある。
時間が勝負だからしょうがないけれど、一番言いたかったことがカットされたりすると悔しい。それから最近は小さなコミュニティFMの番組に電話で生出演するというのもあるのだけれど、これはこれで緊張する。電話がかかってくるわけだから出られる状態で待っていなければならない。翌月に控えた宮崎のFMの電話出演をすっかり忘れていて、気がついたときはもう2時間近く過ぎていて頭が真っ白になったのだけれど、慌てて自分からかけてみたら、まだ番組は終わっていなくてギリギリセーフで話すことが出来たけれど、セッティングをしてくださった首藤さんやラジオ局の方々は本当に焦っていたことだと思う。それなのにいつもの話調子で「もしも〜し〜」という私のノンビリした声にスタジオの皆さんはひっくり返りそうだったそうで、ごめんなさい。
翌日も今度は山口の光市のフォークジャンボリーの出演者のために主催者の上田さんから朝の9時10分から電話でと言われて、もう失敗はしないぞ!と電話を前に正座して待っていた。あ〜よかった。

24日、25日は福井に行く。
ラクガキ屋のヒサさんのお店で唄う。土曜日の昼間、ヒサさんの友人やその子供達が集まってガラス張りのアトリエは道行く人も見えて私はこの場所で唄わせてもらうのが好きだ。処狭しと飾られた絵葉書やいろいろなものたち、旧いカメラのコレクションやもちろん子供達の遊び道具や絵もあって、居心地が満点だ。ヒサさんの王女様のそらちゃんは2年生になっていて、はじめて春一番の芝生の上で会った頃からは考えられないほど成長していた。でも自分を強くもっているそらちゃんは変わっていなくて、そして食べることがダイスキなところも変わっていなくて。この日は子供達がとても沢山集まったのだけれど
私が唄っているあいだはみんなずっと下を向いていて、静かなのは良いのだが
唄、聴いてくれているのかしら、、と思っていた。休憩をはさんで20曲。
気持ちの良い音は寺沢さんがつくってくれる。彼も音楽をされているが、いつもこういうときは一切裏方に徹してくださる。とにかく良い音なのだ。
2時間半の長いライヴになってしまったけれど、皆さん最後まで聴いてくださり、そして子供達は?といえば、私に一人ひとりライヴ中に一生懸命描いてくれたそれはそれは丁寧で綺麗な絵をプレゼントしてくれたのだ!
だから、みんなしたを向いていたのだ!それなのに私が唄っている絵などは髪型や服やギターの絃まで細かく描いてあったり、それぞれにメッセージがはいっていたり、嬉しかった!ライヴペインティングだ!
そらちゃんの絵の中には「よしこさんとおそば食べに行こうね」と書いてあって笑った。
いつもはラクガキ屋さんの中で手作りの打ち上げをしていただくのだが、この夜はヒサさん親子たちと近所にある越前蕎麦の美味しいちょっと不思議なマスターがやっているお店でお蕎麦を食べた。最後はドロドロのそばつゆに大きな梅干を入れてぐちゃぐちゃにして飲むのだが、これが美味しい。店内はジャズが真空管アンプを通して流れてくるし、遅い時間まで開いているお蕎麦屋さんは、夜はかなり飲み屋風で面白い。
食事の主導権はそらちゃんが握っているようで、この夜の終わりは満足満足だったようだ。
それにしても、いつもお友達やご近所さんに声をかけてくれて、ヒサさんありがとう。集まってくださった方々もありがとう。
ライヴの終わりに必ずヒサさんが挨拶をするのだが、今回も泣き虫だったね!
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やっぱり同じだった

レイチェル・ファロ帰国の朝、私は高校のクラス会に出席する予定があり、
レイチェルさんがホテルを出るまで小日向さんと少しビジネストークをしたいと言っていたのでお願いして、銀座の中華料理店のクラス会へ。
私は女子高に通っていたのだが、3年生の半分はまともに学校に行っていなかった。それはちょうどピピ&コットというバンドがエレックレコードからデビューしたときで、学校はよくぞ私に卒業証書を出しくれたと今になると思う。
それ以後私は学友との交流もなく、アメリカに渡って帰国した時に一番仲のよかったM子と会った。彼女はもう大学も卒業してそれから今も続く仕事のきっかけになる大手の園芸店でバリバリと働いていた。私の姿を見て「あ〜これはもう死ぬかも、、、」と思ったそうだ。それが長い間30年くらいのあいだ渡しが同窓会名簿の中で(不明)から(故人)になってしまった原因らしい。
ある日道で「あの、失礼ですけれど、、吉田さん?」とクラスメートだったKさんが声をかけてくれて「あなた故人になってるわよ!」と教えてくれたのだった。今の名簿をKさんからもらって何人かに電話をしてみたのは5〜6年前のことだった。いたずら電話かと思う人もいた。そりゃそうだ、私が死んだらしいと聞いて泣いたのよ!と言う人もいて、もちろんそれから数人の人たちに会って、いまでは時々コンサートに来てくれる友達もあった。
なかなか時間が合わずに行けなかったクラス会の幹事をしていた元気なグループが、11日のコンサートにやってきてくれて、「あなた来週のクラス会で唄いなさいよね!」と言うので、強行スケジュールだったけれど、ほんの1時間ほど出席して15人ほどが昼間から無礼講でまだお元気な当時の国語の先生を囲んで賑やかに食事をしているところで1っ曲唄った。今年90歳という先生から「とにかく体を大切にね、長生きして頂戴ね」。。。そりゃそうだ、死んだはずの人間だもの。。。

大急ぎでホテルに戻り、トナカイくんがビートルで迎えに来てくれて、レイチェルさんの荷物を積み込み、成田まで。
10日間の日本の旅が終わる。
トンネルのない道を選んでの帰り道はとっても早かった。私達はあまり会話もしないで静かに外を眺めながら、時々一緒に笑った事件や一緒に食べた食事のことや、ポツリポツリと話したが、あっというまに成田空港へ着いてしまった。
レイチェルさんはカートに全ての荷物を積み込み、車寄せからは一人で運ぶから、此処でお別れしようと言う。
私もそうなのだが、駅の改札や飛行場の中まで見送られると、その旅が楽しければたのしいほど、その人がダイスキなときほど辛くなる。
泣いてしまいそうになるときもあって、どうもいけない。。。。
「ありがとう」をお互いに言いながらこのときばかりは抱き合って「またすぐに会いましょうね」と言い合ったが、彼女はクルリと重いカートを押しながら
空港のロビーに向かって歩いていった。
私とトナカイくんも振り返らずに車に乗り込んだ。同じだな、見送り見送られる時。

レイチェルさんからメールが来たのは、それから一週間近く経ってからだった。
最高に楽しかったが、ものすごく重い時差ボケと疲れで静かにしていたらしい。
それもとてもよくわかる。さぞかし疲れただろう。。。。
でも、短いメールだったけれど、「日本に行って素晴らしく温かい人達に逢い、そして自分が忘れていたRACHEL FAROを思い出すことが出来たことが一番ありがたかった」とあった。
彼女も随分と長い間ツアーまでして唄ってはいなかったし、プロデューサーという仕事に夢中になっていたから、この日本という場所で待っていた人達や初めて聴いてくれた人達から沢山のことを気づき、自分が唄うということをあらためて考えたのかもしれない。

私にとってのこの10日間は、あまりにもめまぐるしく過ぎていったけれど、
常日頃のツアーとはまったく違うものだったし、数え切れない人達の支えがどれほど見に沁みて有難かったか〜どれもこれもアタフタとしながらでも無事故で終わったことに感謝しかない。
しかし、私には時差はないけれどやっぱり体は疲れていて、そして大変大きな課題も沢山もらって、10月の半分が終わった。

  「アリガトウ」は言うはやさしいけれど、いただいたものに応えることでしかないのだから。
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2009年10月12日から

10月11日の夜に翌日からの旅の為に持ちきれない荷物や楽器の一部を
小日向さんの車に積んでもらって、翌12日、レイチェルさんと私はお互いに大事なギターとレイチェルさんの子供が一人は入ってしまうような大きなトランク(私たちはこのケースを Sammy−sanUと呼ぶことにした)それは今回の旅でレイチェルさんと同行するかもしれなかったパーッカショニストのサミー・フィグエロアさんの持ち物であることと(パーカッションの人らしい大きなケース)彼が最後まで日本に来たがっていたから。新宿までタクシー、そして小田急ロマンスカーで小田原まで。レイチェルさんはこのロマンスカーというネーミングにかなりハマッていたけれど、問題はあのトンネル回避だ。しかし必ずトンネルはあったけれど、なんでも早い速度で走りぬけるのなら大丈夫らしくIpodのイヤホンから爆音が彼女の耳から漏れていた。
小田原にはこの夜唄わせてもらう鴨宮の「ジーズキャフェ」のオーナーのジョージさんとトナカイくんこと小島さんが2台の車で迎えに来てくれていた。
小田原の海を少し眺めて、レイチェルさんはホテルへ。
このツアーは東京を含めて4箇所。初日とはうって変わってライヴハウス。
ツアーを組む時にも随分考えた。ともあれジーズキャフェの皆さんが快く胸を貸してくださった。京都も神戸もヒトハダ・フタハダ脱いでくださった沢山の人達のおかげで道ができた。
あやさんという若い女性が通訳をしてくれるようにと取り計らってくださっていた。彼女はレイチェルさんのCDを聴いて用意していてくれた。
本番前もあやさんは緊張していて、それでも一生懸命に唄の意味などを説明してくれながらステージが進んだ。
ジーズキャフェならではの賑やかな空気の中で、前日とは違うリラックスしたステージであったし、レイチェルさんのレパートリーも変わっていた。ピアノがないから1部と2部の構成も私と半分ずつにした。1部は私も彼女もソロを多くして、2部は私の間に彼女とのデュエットを入れた。彼女の代表作の
「Refugees」のダブルダルシマも私がコード進行に慣れてきてコーラスが自然に出来た、それからジム・ペッパーの作品「Wititaito」も
急遽唄うことになった。私も好きな唄であるけれど、知っている人は少ないと思ったのでこれは私がお客さんに簡単に説明をした。ステージでのテンポが出てきた日だったと思う。特に曲の内容を説明するのはとても難しい。それでもあやさんに声をかけてくださったジーズのジョージさんの心遣いとあやさんの一生懸命に感謝する。満員の客席から小日向さんがカメラを回してくださっていた。音響席はステージが見えない一番奥なのでオペレーターのあたるクンも苦労したかもしれないが、このお店と集まったお客さんとともに良い瞬間がいくつもつくれたと思う。
スタートは7時からだったけれど、10時近くまでの長いライヴ、立ったままのお客さんには申し訳なかった。それでも皆さん最後までお付き合いいただいた。
終わってからの打ち上げはささやかに、いつも手料理を持ってきてくださる方や、ジョージさんのお父さん(オジィと呼ばせてもらっている)の持ってきてくださったアジのタタキなどとワイン。
私はこの住居兼お店の最上階のロフトで休ませてもらうことに。
トナカイくんがレイチェルさんをホテルへ。

翌朝、ジョージさんが小田原港の市場の食堂に私たちを連れて行ってくれて、
レイチェルさんは海鮮丼に満足したようだった。
ここからの移動が大問題だった。宅配便で送れるものはほんの少しだし、なんといってもサミーサンUを転がしながら中年女性二人が新幹線移動は無理だ。
なんと、トナカイくんが彼の愛車ビートルで運んでくれると言う!小島くんのことをトナカイくんと呼ぶようになったのは、はじめて出会った4年前に彼から「運転をするトナカイみたいな者です、、、」という挨拶から私も遠慮なくトナカイくんと呼ばせてもらっているけれど、京都までの道のりを東名、名神で走り続けるのだ。一足先に彼は車一杯の荷物を積んで出発。
一方新幹線では長いトンネルをレイチェルさんはパソコン仕事に没頭しながら、益々の爆音のイヤホンで耳を塞いでいた。
京都はちょうど秋の行楽シーズンで適当なホテルがなかなかとれなかった。
京都のライヴを受けてくださった佐々木さんもお手上げで、自分達で探すしかなかったので、私の叔母のツテで会員制のホテルを三日間予約することが出来た。しかし部屋に入ったとたんに大騒ぎだった。インターネットが使えないのだ!レイチェルさんはインターネットで毎日の連絡をする。特に電話はネット電話でなくては物凄い値段になってしまう。
どうしようもないときがあるのだ。ホテルを変えるつもりはなかった。だって
これだけ沢山の人たちに苦労してもらったのだもの。
彼女には気持ちを切り替えてもらうことにして、OFFの時間を夕食の後の散歩や、京都の地図で行きたいところを考えてもらって、自由に過ごしてもらうことにした。
スターバックスが此処かしこにあることがわかり、随分嬉しかったようだ。
やっぱりアメリカの匂いとアメリカのコーヒーの味で気分は落ち着くようだ。
14日<水)平日のライヴはお客さんに来てもらうのが大変だったと思うのに
会場のSomethingには50名以上のお客さんがやってきてくださった。
レイチェルさんの友人のエリザベスさんやそのまた友人の皆さんが最前列のテーブルにいてくれて、その中の一人の男性が素晴らしい唄の通訳をしてくださり、私は新しい唄ばかりでなく、河原町の灯りが大きな窓からユラユラと見える開放的なステージでウララスゥエで始まった1部では私の唄を中心に、2部はセッションを中心に、
京都らしいステージが出来上がったと思った。
お客さんは平日なので早く帰る人たちが多かったが、中心者の佐々木さん、渡辺さん(いつもお蕎麦をごちそうさまです)や、遠方から来てくださったお客さんと、お店の隅でお疲れさまをした。佐々木さんにはこの2年くらいの間に御世話になりっぱなしだ。
大阪からやってきてくれたホテルの件の叔母をステージの直前に紹介して(叔母は英文科だ、が、どういうわけかやっぱり知っている人ほど話さないの。。)ホテルのことを叔母が謝ったら、レイチェルさんも全てわかっていて
仲良く微笑みあっていたのが嬉しかった。身内孝行の少しでもと思いながら
この夜も日本土産一式とご祝儀を渡された。
夜、ホテルへの帰り際レイチェルさんは私に「素敵な叔母さんのいるヨシコはシアワセだ」と言ってくれた。しかしインターネット使えなかったから電話代が大変だとも言われた。。。。。
翌日はお休みの日。一日京都で過ごせる日。レイチェルさんは旅の間に何処で買ったのかバックパックを背負って朝から一人で京都を見物していて、私はいつも御世話になっているアコシャンのママに会いに行ったりで夕方まであっというまに時間が過ぎた。三条のスターバックスでレイチェルさんと友人のエリザベスさんと待ち合わせて、食事に行く。先斗町の料理屋さんで、在日の海外の人に日本料理やさんを紹介してもらったのは初めてだけれどもとても美味しくて値段も手ごろだった。
私達が先斗町で食事をしている頃、トナカイくんは一人京都の夜を過ごしていた。
翌日、神戸入り。新神戸の近くのホりディ・インに宿がとれた。これでネット問題は解決だ!
一休みして会場の饂飩やさん「な也」へ。
饂飩屋さんなのに毎月ライヴが行われている。オーナーの岡ちゃんの豪快な巨体がトレードマークみたいになっているけれど、とにかくお店の人たちが働く働く、そして美味しい。
ツアー最後のライヴ。この夜はあかべいこと赤木一孝さんがギターで応援に来てくださり、私の大阪の友達八巻くんもハモニカで参加ということで賑やかなファイナルになる。岡ちゃんがエレキピアノもセッテイングしていてくれて、
リハーサルをたっぷりしたかったのだけれど、かるく合わせてレイチェルさんはホテルにいったん帰る。この送迎もトナカイくんがしてくれた。
な也では出演者に豪華なお饂飩セットが賄われる。あかべいさん、八巻くん、
私で静かに本番前の控え室でズルズルという音が響く。
果たして本番のセッションはどうなるのかしら、、、、、私の唄う時間になってもレイチェルさんは来ない。。。でもここはトナカイくんありがとう、間に合った!Ohlalaを一緒に唄い彼女のソロと道ばたでおぼえた唄で一部終わり。
あかべえさんがしきりにレイチェルギターの絃を心配している。絃の張り方が逆廻りなのと、とても古いから、、、。でもそういう細かいことでないところで彼女はとてもお客さんの事も考えて曲目を咄嗟に決めたりした。
ピアノで唄う曲も自分で弾けるキーと唄えるキーは違うけれど敢えて挑戦するのだ!少し声が苦しくても唄いきる姿勢は私もあかべいさんも「凄いね」と共感してしまう。
「Witchitaito」も一緒に唄った。神戸では音楽詳しい人たちが随分来てくださっていて、レイチェルさんのMCの中で出てくるアーティストの名前などに反応する。 Wichitaitoは前に書いたようにジム・ペッパーというジャズのサックスプレイヤーでもあり作曲もしていた人でもあったのだけれど、バックボーンのほうが一人歩きしているような神話のようなものがある人のようだ。彼はネイティヴアメリカンのカウ族の血をひいていて、お酒、薬に溺れて夭逝したという話。この代表曲もそういうハイなときに創った曲などと言われているけれど、平和を祈る唄だと私は思い続けているし、この曲を知ったのはレイチェルさんのレコードのおかげだった。とても好きなのだ。ステージでレイチェルさんが「この曲はレコードに入れるつもりがなく、自分は娘の子守唄のつもりでうたっていた。プロデューサーのジョン・サイモンが録音するように勧めた」という話をした。そして私のほうを向いて、小声でといってもマイクがあるから聴こえた人には聴こえたから書いてしまうけれど「彼は昔、ボーイフレンドだった」って! そういう気さくな話も飛び出てきて、あかべいさん、八巻くん、それから通訳を少しだけれどしてくれたティム青年も反対に日本語の勉強みたいになってしまったけれどありがとう!
大阪からも応援団の皆さん、京都の佐々木さんも駆けつけてくださり、そして神戸の大好きな人達がお饂飩食べて美味しく飲んで、最後まで楽しんでもらえただろうか?レイチェルさんのCDはこの神戸で残り9枚ということになってしまって本人も驚いていたし、私もほっとした。
お店やステージを片付ける中で、神戸の友達や御世話になっている人たちと一緒にさっぱりとかけ饂飩をすするレイチェルさん。彼女だけが賄いを食べずにいたのだった。
たった4回のステージでもどんどん変わっていく。出来れば、このままもう一回東京でやれたらいいのになぁ、、と思った。ツアーの組み方も、準備の仕方も、全てがお客さんの前で演じる一瞬に繋がる大事な要素だ。これも全て新しいチカラにしよう。

東京に帰って一日休んでこのツアーは終わる。

鴨宮を出発したトナカイくんは神戸のライヴの途中で抜け出して、ひたすら東京に向かって夜走りをはじめていた。
ホリディ・インに帰ってからレイチェルさんに、トナカイくんには私達の個人的な気持ちで謝礼をしたいと言ったらば、彼女もそう考えていて嬉しくなった。

伊丹空港までは、八巻くんが運転をしてくださる。宣伝やお客さん集めに奔走してくれた眞城一家のところに途中挨拶に行く。
羽田に夕方着いたのだけれど、私はバスで新宿まで行きたかった。。。もうお分かりだろうが、トンネルが。。。二人とも疲れていたから、かなりの勢いで言い合いになったが、結局タクシー代をレイチェルさんが少し多めに払う、ということで決着がついた。タクシーの中でポツリと「アリガトウ、ヨシコ。あなた、この一週間で凄く英語が話せるようになったじゃない?素晴らしい!」と言われた。本当にそうおもう、初日にホテルが狭いことで話し合ったときと
さっきタクシー乗るで言い合った時とはまったく別人みたいに喋っていた。
しかし、もっと深い話がしたかったなぁ、、。でも語句は少なくてもずっと一緒に顔を見て話をすれば伝わることが殆どだ。

同じ日本人同士でも、最近は会って話すよりメールや、それよりももっと短いブログやもっと短いつぶやきのようなものでつながりを済ましてしまうことで
便利にはなったけれど、誤解や心ならずも人を傷つけてしまうこともある。
「短いコトバ」は簡単なようで難しいと思う。だから私は、こういう日記は長い文章になってしまう。短いときもあるけれど。。。。。。。。。。。。。。遠い昔、タイコの音で会話したり、のろしの煙や自然界の変化で気づきをした人達がいたのに。
しかし、音楽は伝達するツールにも成りうる。そしてやっぱり「短いコトバ」は難しい。

ともあれ、最初のホテルに帰ってみると、トナカイくんがきちんと荷物をホテルに届けておいてくれていた。さすがに心底疲れたでしょう、自宅で休んで明日は成田まで行ってくれると言う。

この最後の夜は、もと早稲田のジェリージェフのママであった加代子さんが有志を募ってささやかなプライヴェートパーティーをしてくださるということで
高田馬場の小さなスペイン居酒屋さんに集まった。レイチェルさんのファンの方や加代子さんが連絡してきてくれた人、初日に苦労させてしまった晴子さん、大野えりちゃん、それから中川五郎さん、など10人ほどで。特に五郎さんは仕事でライヴにこれなかったので加代子さんと連絡を取って来てもらった。それぞれにお喋りをして、ワインをいただき、でもやっぱりこれだけのメンバー、唄でしょ! というわけで五郎さんの訳したミー&ボビーマギー
を日本語や英語で歌いだし、Wichitaitoももの凄くハモって(えりちゃんの声)、ディランの唄もあって、この夜をそのまま映像にしたいわね、と誰もが思ったとおもうけれど、
そういうものなのだなぁ、、、。ホントに善いものを創るのは瞬間のための長い時間。
良い夜が終わって、私とレイチェルはホテルのとなりのAMPMで夜食を買って
最後のオヤスミナサイ。
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2010年02月21日

2009年新大久保R'Sアートコート

このホールでこうやって年に一度の東京での自分企画のコンサートを行うのはこれで二回目。2008年は「地球に似た惑星にいるあなたに」の発売記念ライヴということで、レコーディングメンバーの近藤達郎さん、松永孝義さん、永原元さん、そして大野えりさんという豪華なバンドスタイルでスタッフの方々も手弁当に近いかたちで、賑やかに、そしてお客さんも本当によくぞ来ていただいた!と、そらはそれははじめてのホールコンサートだった。
今回も「She said NO!」の発売に近い日を選び、初めはバンドのかたちにしようか、はたまた編成を小さくして、たとえばドラムだけとか、、いろいろ悩んだ。そこにレイチェルさんのスケジュールが重なって、それならば私自身は一人、そして彼女も一人、というとてもシンプルでしかしとても難しいプログラムを決めた。
私が何より初めにしなくてはいけない準備はその日にお客さんにきていただくこと。皆さん早くから予約していただいたり、10枚、20枚と友人の方々にチケットを売ってくださったりで、しかし当日まで無事故でその場にお客さんが集まってくださる事を祈りながらいた。さまざまなアクシデントもあったけれど、それも勉強だったし、主催が自分なのだから全ては自分の責任であることで、日常各地で主催してくださったり、企画してくださったり、お客さんに声をかけてくださる方々の苦労を改めて感謝した。
主催は自分でも、ひとつのコンサートはお客さんとそして陰で数え切れない人たちに支えられて出来上がる。
2回目のR'sアートコートのステージに上がった瞬間に、様々な想いが溢れてきた。照明のあたったステージからは客席が見えにくいのだけれど、そこには確かにそういう一人ひとりの想いが席を埋めているのがわかる。
「アリガトウよしだよしこウタウ」というタイトルのように唄わせてもらえばよかった。
一部は私一人で新しいアルバムの曲を中心に唄った。しかし、これはもう反省しても仕切れないのだが、二部でのレイチェルさんとの事やそれまでの実務や
その他諸々の人間関係の事などで、どうしても集中できないまま唄ってしまった曲があった。録音をしているということも意識してしまっていた。せっかくの「アリガトウ」なのに、自分のことで頭がいっぱいになってしまった瞬間が何度もあった。本当に申し訳ないと思えばおもうほどおかしくなるもので、
言い訳しないステージを心してきたくせに。。。。一部の最後には「今夜彼女は台所を棄てた」をやり直す始末。まだまだだ、ほんとにまだまだだな。
せっかくこんなに沢山の方々が集まってくださったのに、悔しかった。
しかし、考えている時間はなく二部がはじまった。私が「ライディングハイ」をダルシマで唄ってレイチェルさんを呼び込んだ。彼女は少し緊張気味だったけれど、それでも持ち前の声の響きとリズムは、彼女のファンの人たちには喜んでもらえたはずで、ただ通訳をお願いした朝倉晴子さんには、事前の打ち合わせが少なかったことで随分苦労をさせてしまった。二部は殆どレイチェルナンバーで、最後に私が「She said NO!」を唄って終わった。アンコールは決めていなかったのだけれど、咄嗟に私がレイチェルさんに「Water is wide??」と言ったら「OK!]ということでぶっつけ本番の英語と日本語のデュエットが出来た。これは嬉しかった!
彼女も100枚ほどの「Wind song」というアルバム(これは20年前に録音したレコードを最近リマスターしたもので、とても音が良く、私の唄っている「道ばたでおぼえた唄」と同じメロディーのDaggerDanceという曲も入っていて、ステージが終わってからは彼女のこのアルバムを沢山買ってくださった方々があってとても嬉しかった。それに加えて私自身のアルバムまで買ってくださる方が半分以上だったので、これは大変なこと!言葉にならない!
レイチェルさんを昔から聴いていた方々は当時のレコードを持って彼女のところで写真を撮ったり。そういうことが実現できたことは成功だったし、事故のようなことも起きないで大きな一日が終わった。

この日にしたことは、良いところも悪いところも含めてこの日の事であるから
とにかく翌日もあるツアーのために私とレイチェルさんは、打ち上げもせずにホテルに戻った。

ただ、毎年一度の東京のライヴは、やはり「よしだよしこ」の軸がぶれていてはお客さんに申し訳ないと、一人ホテルにてもう一度反省。。。。
しかし、私が誘わなければ多分こういう形のコンサートでレイチェル・ファロが唄うということは日本で無かったかもしれない。これは私の挑戦でもあった。
挑戦に伴うリスクも私が抱えて、新たな力にさせてもらうのだ。

ツアーの途中で遠方から来てくださった方と電話をした時に言われた。
映画「ソング・キャッチャー」のシーンを思い浮かべた。。と。
私のダイスキな映画のひとつだけれども、私もレイチェルさんも根っこに同じような「唄」の力を追い求め続けていく精神を大切にしていることだけは確かなことで、彼女の誠実さは言葉を超えてこの日会場に来てくださった方々に少しでも伝わったのなら幸いだ。

大きなコンサートを背負うだけのチカラをつけるぞ!
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Rachel Faroとの日々2009年10月

レイチェルさんと31年ぶりの再会は2009年8月、ニューヨークの彼女のお母さんのお宅であったけれど、再会というのは私の一方的な感覚であって、
私は1977年のグリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスのマイクを隔てての観客としてであって、彼女にとってはこのお母さんのお宅で私とはじめて会ったのだった。
そして、そのときの約束どおりレイチェルさんは日本に来た。長いフライトの後はまずは一人になってゆっくりとした時間が必要だ。私のように国内を移動していても、空港から駅から直接会場に入ってすぐに人と話し、すぐ唄うというのは近郊ならよくあるけれども、遠いところではまずホテルなり、どこかのお宅なりで一息するととても助かる。
一晩ゆっくりと成田のホテルで休んでもらって、東京に移動してもらう事にしていた。私は車を運転しないので、今回のコンサートの企画運営のお手伝いをしてくださるディーシー・フォルテの社長、小日向さんにお願いした。小日向さんは私の「地球に似た惑星にいるあなたに」と「She said NO!」2枚のアルバムの制作にも携わって下さった。そして心強かったのは小日向さんが
大学で英文科にいたという事。しかし!小日向さん「僕、筆記はOKだけれど喋るのイヤ」という。なんと!あてにしていたのに、、、。わかっている人ほどそうなのかもしれない。ともあれ成田ヒルトンの豪華なテラスでレイチェルさんを待っていると、ゆったりと、そして静かな微笑みで階上から降りてきた。
アメリカンな大げさな身振りも喋り方でもない、お互いに日本式にお辞儀の挨拶をしてお茶を飲んで、それでもやっぱり疲れているのはわかる。そしてものすごく大きなトランクとギターとバッグ。全てを積み込みいざ出発。彼女にとって20数年ぶりの日本の景色を車中から感慨深げに眺めていた。
そして大問題発生!「トンネルは通らないでね!」なんで〜?とにかく彼女は
閉所恐怖があって、狭いエレベーター、そして特にトンネルは死んでもゴメンなのだそうで、しかし首都高速道に入ったら必ずあるトンネル。。。。
汗をかく小日向さん。。。しかたなく途中で高速を降りる。無事に四谷のホテルに到着。ホテルでもエレベーターのチェック。彼女一人が階段を使う。
そして部屋へ。。「狭い、、、、」の一言。私の必死の説得。。ここが一番会場に近くて、値段のわりに良い部屋であること、私達のこれからのツアーは決して豪華には出来ないことを喋った。この夜は彼女一人になるので、明日早い時間から私もこのホテルに泊まってずっと一緒だから。。と納得してもらい
私は帰宅。
夜遅くレイチェルさんからのメール。「ホテルは気に入ったし、夕食は隣にあるAMPMでウドンを買って部屋で食べてとても落ち着いている、ありがとう。」
さすが!
翌日、私はこれから始まるツアーの全ての荷物を持ってホテルへ。
ゴキゲンのレイチェルさんとのリハーサルは彼女の部屋で。しかしリハというほどのものではなくて、曲目を決めて簡単に一緒に唄っただけ。明日本番だよ〜〜、でもお腹空いたよね、、ということで荒木町の小さな居酒屋ではじめての二人だけの食事。。。沈黙の時間が多いけれど、しょうがない、とにかく自分のプライヴェートなことなど話していくうちに、彼女もいろいろ話してくれた。少しずつ距離が近くなって冗談も出る。ガールズトークも出る!
明日の時間の確認をして<昼間のコンサートは入りが早い)オヤスミナサイ。
エレベーターは慣れたみたいで、「ヨシコの部屋も見せてよ」と言って同じサイズの部屋で納得。
翌日朝食のバイキングに和食があって歓んでいた。
さぁ、コンサート!一緒に会場のR'sアートコートに行きましょうね!と部屋から電話すると、私はゆっくりしたいから後で行く????誰がお迎えに??? しかしこれもよくわかる。彼女はゲストなのだから、長い時間ホールで過ごして本番疲れることを知っている。小日向さんにお迎えをお願いして
昼前に私のリハーサル。音響は前回も同じホールでお願いした加納厚さん。
私もレイチェルさんも全て楽器はマイク録りだから加納さんはマイクを沢山持ってきてくれた。特にダルシマにつける小さなコンデンサーマイクはとても私は気に入っている。レイチェルさんはピアノも弾くから、ホールの横尾さんはじめ照明の加納組(PAと照明さん同姓、当日は親方の加納さんは来れずに若い人たちが3人も!)の皆さんなど総出でピアノの移動
客席つくりが始まった。録音もするのでこれは「地球に似た、、」のときにマスタリングをしてもらった加藤さん。そして小日向さんが映像を撮る方々三名を頼んでくださり、プロフェッショナルの仕事に私は身を預けてサウンドチェックをゆったりと出来た。一人で唄うからチェックは早く終わったけれど、レイチェルさんがまだ来ない。開場まで一時間。。。。私はお化粧も終わり、お弁当を食べ始める頃、到着。彼女のリハーサルはあっというまだった。しかし
一緒に唄う曲もあるので私はちょっとハラハラ、、、。しかしこのレイチェルさんの余裕とOFFとONの切り替えは学ぶところ。決して手を抜いているわけではないし、緊張感ははっきりと伝わってくる。楽屋に大野えりちゃんがスターバックスのコーヒーを差し入れてくれる。スターバックスはインターナショナル。それはレイチェルさんにとってもホッとするアイテム。よりこちゃんも私の衣装着替えや気分転換のために付き添ってくれてレイチェルさんとも気軽に話してくれている。助かる、そうでなくてもホールの受付では今頃お客さんがそろそろ入り始めて全スタッフが戦争状態のはず。
この僅かだけれど凝縮された本番前の時間は、何度味わっても特別だ。もうベルが鳴ったらあったのかも忘れてしまうこの時間。
最初のベルが鳴る。小日向さんから大入りのことづけとともに二回目のベル。
スタバのコーヒーを飲んでいるレイチェルさんに「See You♪」
真っ暗なステージに上がる。
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2010年02月04日

2009年10月覚書その1

レイチェル・ファロの来日を目前にして、毎日が目の廻るような忙しさだった。それでも地元川崎のFMに行ったり、いろいろな人に会ったりと自分の家でゆっくりしていなかった。我が家は川崎の溝の口という駅が最寄り駅になっているのだけれど、そこからバスで混んでいたりすると30分くらいかかる。
それに終バスも10時過ぎで、都内で何かあると必ずタクシーを使ってしまうことになる。スッゴク悔しいけれど引っ越せないものなぁ、、その余裕がないんだなぁ、、。
話がずれてしまったけれど、そんな最中にタイコの永原元ちゃんからいただいたメロディーにコトバがやっとついた。これはデザイナー<私は絵描きさんと思っているのだけれど)のAKIくんの絵のイメージでCDと絵本が一緒になったような素晴らしい企画のアルバムを元ちゃんが初プロデュースではじめて、私も参加させてもらった。他にも素晴らしいアーティスト達ばかりが参加していて、でもどれもまだ聴いたこともなく、ただただ自分の課せられた歌詞をつくって歌うということをすることになった。
メロディーはいただいていたのだが、AKIのイメージする絵のそのまたデッサンのようなもので、タイトルのテーマが「雨」だった。
出来上がったメロディーに言葉をつけていくのは本当に難しい。自分の作品の殆どが、まず言葉ありき。。でやってきたから。
でも、イメージがあり、テーマがあり、そこに私自身の思いをかさねあわせていくという作業は新鮮だったし楽しかった。「さぁ、やろう」と便箋の前に座るまでに時間がかかったけれど、それはいつもの私のギリギリまでやれない性格がいけないので、座ってみたら、なんだか元ちゃんやAKIくんのように
すぅーっとコトバたちが雨のように降ってきてくれた。
それを今度は自分でメロディーにのせて唄ってみるのだけれど、KEYが凄く高い!フツウは唄う人のkEYに合わせるものだが、元ちゃんはすでにカラオケもつくってしまっていて、すでにそれをギターで弾く真中ヤスくんにも頼んでいて、そして練習を沢山するじかんもなかったのだけれど、録音の当日がきた。
埼玉の緑濃い住宅地の一室で、「さ、やりましょか」というこのラフな雰囲気に、忙しくてヘトヘトになっていた時期に、ふっと神様がくださったような、
楽しい「音つくり」の時間は、とってもリラックスさせてもらえて、自由に唄わせてもらえて、細胞が蘇ってくるようだった。
ありがたい貴重な時間だった。

後日、元ちゃんやAKIくんからもコトバを気に入ってもらえているのを知りまたまた嬉しくなったし、自分でもダイスキな唄になった。
はやくアルバムできないかな〜

秋の天気はずっと不安定だった。
10月9日、日本列島を大型台風が縦断した。レイチェルさんが成田に着く日だ。でも到着は夕方だし、台風は過ぎていってしまっているから、、、と思っていたけれど、アメリカン航空に問い合わせたら、数便の遅れがあるという。
欠航してはいないんだ、よかった!と思っていたし。その夜はレイチェルさんは一人で成田ヒルトンに泊まって体を休めることになっていたから、私は自宅で翌日からのツアーの用意や、新大久保の予約の確認や、まだまだ知っている人たちに「どうかお待ちしていますね」などということをしていたら、到着時刻を5時間以上過ぎて「Hi!This is RACHEL」というトーンの低い元気のない声の電話。しきりに台風台風と言っていて、なんでもケネディー空港で5時間も待たされたらしい。。。殆ど会話もなくとにかく「Goodnight,see you tomorrow...」で電話は切れた。
さぞかし疲れているのだろう。。。しかしともあれレイチェル無事来日。
さぁ、はじまるぞ!翌日は成田に迎えに行って、都内ホテルに移動。
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2010年01月19日

2009年9月後半

四日市から、JRで神戸まで。
神戸の三宮の改札口で眞城一家が待っていてくれた。眞城佳奈さんは神戸に行くと必ず私の細々としたことをパッパとスピディーに支えてくれる。ずっと年下なのに、、そしてゆうすけ&だいきの兄弟も友達みたいになってしまっている。。。
この夜は三宮「ラストワルツ」。春にもお邪魔した小さなお店だけれど、中身が濃い!とてつもなく音楽に詳しい人達、詳しいと言うよりダイスキな人達が集まるのだ。私が知らないアーティストの話でみんな盛り上がっていて、でも
来年の「ジャクソン・ブラウン&シェリル・クロウ行く?とかディランはどうしよ?」なんて、三宮という繁華街の飲み屋さんビルの4階で大人たちがそういう話と美味しいお酒を夜な夜な飲んでいるのだ。
私はこの店ではノーマイクで唄う。この夜は10月にレイチェルと神戸で唄うから、皆さんに「来てね」という宣伝もいっぱいしてしまった。
10人でいっぱいになってしまうお店だけれど、カヴァーの曲も数曲入れて、ゆったりと唄わせてもらった。みんなと10月に再会を約束して眞城家にて10月のライヴの打ち合わせなどしながら休ませてもらう。

翌日は大阪、またまた新快速で平田ママ(みんながママと呼ぶ。)でもそれはとても元気でみんなのお母さんみたいに面倒見がいいからで、今回も夏に京都に行った時にこの枚方の「MogajogaDinning」というお店で唄わせてもらえるように、やはり枚方で御世話になっているNご夫妻と尽力してくださる。
初めてのモガジョガダイニングは古民家のような佇まいなのだけれど、お料理も美味しいようで、枚方ではいろいろな場所で唄わせてもらえるようになったけれど、どこも個性的でなにしろみんな私くらいの年代のお客さんが多いのだけれど、み〜んな元気だし、私の怪しい関西弁にも反応してくれる。別に私はわざと関西に行ってマネしているわけでないのだけれど、どういうわけか自然に少しだけイントネーションが変わる。叔母が大阪にいるせいもあるのだが、その東京育ちの叔母の話し方もかなり怪しい。。。やっぱりネイティヴにはかなわない。また唄わせてもらいたいお店に連れて行ってもらって嬉しかった。
      オオキニ〜

大阪には、やはり必ず御世話になるおうちがある。八巻家だ。犬巻ワンという名前で6年前に突然メールを送ってきた八巻秀樹くんは、生田敬太郎さんを崇拝<言いすぎかな)とにかく敬太郎さんのファンで、でも敬太郎さんを知るきっかけになったのは、最初海援隊のファンだったから、、という遍歴をしていたのだそうで、彼自身も唄をうたう。大阪では私のステージで唄って貰うし、ハモニカも吹いてもらう。ハモニカは敬太郎さんからの直伝で、練習もして会うたびに音が素敵に鳴ってくるし、グルーヴが変わってきて、嬉しくなる。
それだけでなく、とにかく民泊の連泊をさせてもらって、お風呂や朝ごはんまでいただいて、夜は夜で奥さんは朝が早いので、その後もかなりつっこんだ話を飲みながらやってしまう。神戸の佳奈さんしかり、年下だけれど、反対に私が相談してしまうことも沢山あり、八巻くん夫妻は、苦労してきただけあって
とても的確でクールかつ親切な意見を言ってくれる。
枚方の翌日は、心斎橋のど真ん中のビルにある「BARかまくら」  そう
鎌倉研さんと奥さんが二人でやっているお店で、高級感溢れるお店というイメージがあったのだけれど、それは周りの町並みの空気やビルの印象で、改めてギターを持って入ってみれば、木の床やすっきりと清潔にされたBARかまくらは、この大阪ミナミの街で頑張ってよいライヴをやりながら、そして夫婦二人で朝方まで様々なお客さん相手に頑張っているお店なのだ。。。と感じる。
何せ喋りだしたらそれだけで、笑わずにはいられない鎌倉研さんが盛り上げて
しかし、きちんと唄を聴いていてくれていることが嬉しいし、唄も自然に盛り上がってくる。そういう精神を忘れずに自分も唄っている人がいるお店だ。
八巻君のハモニカも手伝ってもらい、研さんからのリクエストのKASABUTAも楽しく唄わせてもらった。
大阪最後は、針中野の商店街にある「かいたに屋」という酒屋さんの三階。
酒屋さんは今大型店の安売りでそらはそれは大変だろうなぁといつも思う、薬屋さんなどもそうだ。しかし「かいたに屋」さんの現在のご主人は、お母さんから受け継いだ様々な智恵で、夜遅くまで営業して、品揃えもフツウではないほど豊富で、なんといっても地下にある立ち飲みやはお母さんのときと同じように美味しい「かんとだき」をつくって「お酒は一人二合まで」なんていうお客さんの体に気遣った張り紙が温かで、一階のお店を上がると、今度はモダンなBARがあって、三階でライヴがあると二階からもゆったりと音楽が聴けるようになっている。八巻くんが唄い、私が唄い、お客さんはそれほど多くは無かったが、かいたにさん自身が音楽がダイスキだから耳と舌も肥えた人たちや外国の人も集まってくる。いつも唄う場所の目の前にはギネスの大きなポスターが貼ってあるので、それだけが唄っているときに気になっちゃうけれど。。。
頑張る商店街の象徴のような働き者のかいたにさん、元気をもらうのだ。

神戸、大阪と過ごして、また今度は滋賀の甲南町に戻ってきた。そう三重のすぐ近くなのだ。
甲南には忍者屋敷がある。その敷地の向かいに「アリアリ」という手作りの建物があり、その建物を作ったのはアリアリの主の森川さんだ。
森川さんは、いつもお店に私が着くと挨拶そこそこに生ビールをドンと出してくる。しかし、結構な長旅だったので、とにかくリハーサルまでロフトで昼寝をさせてもらった。私の旅のお約束なのだが、出来ない時も多いから助かった。そういえば、四日市でもじゅんこさん<彼女とは鴨宮のジーズキャフェで出会っていて、その後彼女が四日市に越してきて再会して御世話になっている)の部屋でもフルハウスの出番の前まで眠らせてもらった。

アリアリのライヴは、今回は近くで居酒屋さんもやっているミュージッシャンのりょうじさんと一緒に唄った。りょうじさんの奥さんのクミちゃんが森川さんのかわりにカウンターを仕切ってくれた。森川さんは客席でお客さんのように一杯飲んでゴキゲンだったけれど、本当はとてもシャイな人でもある。
津のええかげんからガスリーくんも来てくれて、クミちゃんたちが一生懸命お客さんを呼んでくれて、賑やかなライヴだった。打ち上げはりょうじ夫妻の居酒屋その名も「ミルクボーイ」という、静かな住宅街に忽然と出現する不思議なお店でお鍋を頂く。ライヴより賑やかだ。何から何まで御世話になってしまったけれど、約一週間の最後の夜だ。

翌日は、みんなで亀山の「月の庭」までドライヴしてお昼を食べて、ガスリーに四日市まで送ってもらい、JRを乗り継いで、小田原の先の秦野までなんとかギリギリで到着した。
凄いスケジュールを組んでいたのだ。四日市から神奈川。
秦野の「たばこ祭り」に出演。
もともと、秦野ではたばこの葉を栽培していた歴史があって、その歴史から一年に一度の大きなお祭りが続いている。2年前にも御世話になったが、今度は
一緒に誰かと、、と言われて、夏に天婦羅「神尾」に来てくれていた独酔舎さんにお願いした。独さんにはいままでいろんなことで御世話になっていて、そしてその誠実な人柄が唄にも表れていて、とにかくお願いしたのに、今回も私が遅刻しそうになっていたので心配をかけてしまう。。。そういう相性というものがあるのかしら。。。
なんとか会場に間に合ったのだけれど、私の前に唄う独酔舎さんの時に、
小雨が降ってきて、ギターが濡れてしまった。。。。あ〜またまたこういうことに、、、、。なんとか短めに終って貰って、私も短くしようか、、と思ったらなんと雨は上がって、40分ほど唄った。会場での出し物は私で最後だったので、広い秦野の役所前の広場にいる人たちも、そろそろと帰り支度。。。。
でも、声をかけてくれたPUKAPUKA島のぎんちゃん、独さん、そしてCDの売店を出してくださっていたまさえさんに感謝。
なんとお客さんで来てくれていたジーズキャフェのジョージさん、あたるくん、そしてトナカイくんは愛車のビートルで家まで送ってくれて、、、。
その朝に忍者屋敷の前でビールを飲んでたとは思えない移動距離と出会いに自分ながら不思議に感じて、また時差ボケしないように、何も考えずに眠った。
長いツアーのあとは、溜まった郵便物や、メールのチェックや、本当はすぐにパソコンに向かうのが良いのはわかっているのだけれど、だんだんそういうことがすぐに出来なくなっていた。
でも、まずは体を元気にしなければならず、不思議なことに翌日くらいまではテンションが上がっているのだけれど、2〜3日するとドーンと疲れが出る。
しかし、この9月から10月はそういうことも言っていられなく。
旅の翌日は、レイチェルさんの通訳をやってくれる晴子さんと代々木マイバックページで会う。元ジェリージェフのママ加代子さんの紹介で、すぐに仲良くなった。
帰宅するとレイチェルさんからメチャクチャに沢山のメールが送られていたのを発見!飛行機やホテルの変更。。。今はホテルも飛行機もパソコンに向かわなければ始まらないわけで、、、
とにかく、そういうデスクワークを終えてから、宿題にとりかかった。

その宿題は、永原元ちゃんがはじめてプロデュースして制作が始まっている
デザイナーのAKIくんと沢山のアーティストたち集まって録音する大変興味深いアルバムの一曲に詞をつけて唄うというもの。
メロディーにAKIくんのイメージを聴きながら歌詞を書くのは面白いけれど
大変な仕事でもある。普段は最初にコトバをつくる私だから。それにKEYがたか〜いぞ〜!録音まで数日しかなく、AKIが送ってくれたスケッチを眺めながら、何時間もウロウロしていたのだけれど、いざ、ペンを持ったら、不思議なコトバが空から降ってきた「アメアメ」という雨みたいなコトバ。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年01月16日

2009年9月のこと半分

NYから帰って、暫く休養。ってずっと休養じゃない??と思われるかもしれないのだけれど、水面下では毎日、秋のコンサートの準備のための打ち合わせやら、後半期のスケジュールを決めたり、じっとはしていなかった。。。のだが、どうも一日中眠たい。。かなり強力な時差ボケに襲われて2週間ほど苦しんだ。
その間、博多「金太郎」にて岩切みきよしさんとのライヴ。博多には息子がいるので、到着してから息子の通う学校へ。学校の先生と息子と三者面談。
会っていないうちに彼は20歳になっていて、しかし、親子というのは面と向かうとなんてじれったいのだろう、、、。でもメールしても電話してもわからない顔色とか、目つきとか、やっぱり会う事が大事で、来年卒業の後のことを話そうと親も学校も思うのだけれど、今夜の予定のほうが彼にとってはずっと大事!
この息子という人が私のところに来てくれてから20年、どれほどいろんなことを教えてくれたことろう。。。自分の二十歳を思い出したら寒気がする。
親がそばにいなかったことを良いことに、今の彼の何十倍もアッブナ〜イことばかりやっていたのだから。。。。いまの人たちはクールな人達が多い、、
けれど、アツイおもいも心に秘めているはずで、それは母の祈りと背中にかかっているのを今回の面談でも思い知らされて、どっちが生徒なんだ?

岩切みきよしさんは、偶然にも息子の学校の院長の友人で、そして若い頃お互いにヤマハのポプコンの九州大会で素晴らしい賞を獲得して、プロを目指して東京に出てきたのだそうで。その後二人ともプロ歌手としての夢は実現できなかったのに、院長氏は音楽学校を経営するという、いわば音楽をする人たちを育てるという音楽家になり、岩切さんはなんと、福岡の市会議員となってしまい、しかし「唄う市会議員」というまったくもってころんでもただ起きないオカシナ< 本当に岩切さんのMCはオカシイ)音楽家になって、二人とも夢は現実のものになって進行中なのだ。
金太郎には、いつもの高松さんや、若いけれど私のライヴに来てくれる人や
お店の常連さんが集まって、ライヴがはじまった。
とにかくみんな九州の人は飲む! もういいんじゃない?と思うのだが、まだ飲む、、という人達を知っている。その夜もみんな電車の時間ギリギリまで飲まれて帰っていった。金太郎のマスターはギターが大好きで、かなり値打ちものもあるし、プレイもする、そして奥さんと二人、以前は着物の生地でアンティークアロハを作っていた。マスター&ママというより、音楽やファッションの話をする博多の友人のような関係で、お互いタメぐち。ただ、私は今太郎できちんとご飯を食べたことがないので(なんだかタイミングがなかっただけ)
こんどは遊びにだけ行ってもみたい。

博多から帰り、アールズアートコートにて、音響の加納厚氏、協賛というか当日のマネージャーみたいなことまでお願いしたサウンドフォルテの社長小日向さんそしてホールの横尾さんなどと10月11日の「ありがとう よしだよしこウタウ」の打ち合わせ。
こういうときに一番必要なのは、進行表とセッティング表。進行は出演者が私とレイチェルさんなのでコトバでも足りるのだが、ステージのマイクのセッティングの絵を未だに私はきちんと書けない。。。かなり心配して打ち合わせに行くと、なんと加納厚氏がキッチリと照明さんにもわかるようなものを書いてきてくれた。。。ありがたい。。。あっちゃん、もう私のことお見通しです。
予約の確認、これも自分のHPと労音とふたつでやっているし、当日の人もあるし、少ないスタッフでお客さんが気持ちよくスムーズにホールに入れるように、そして体の不自由な方も無事故であるように、、本番まで一ヶ月をきって
毎日気になることばかりが頭によぎるが、こうやってかずを重ねていくうちに学ぶことも沢山あるし、やはり一年に一度くらいは自分で企画して主催しなければ、陰で尽力してくださる人の気持ちもわからないし、なんといっても時間とお金を使って応援に、私の唄を聴きに、元気な顔を観にきてくださるお客さん友人の気持ちに感謝がうすれていくから、私には大切なコンサートなのだ。

9月19日から三重、神戸、大阪、そして最後は滋賀という丸々一週間の旅が始まる。
三重の「ええかげん」はずっと以前から存在は知っていたけれどなかなか行かせてもらうチャンスがなかった。
今回は、沢山の人たちが出るお祭りだ。3日間かかって続くのだが、私は中日に行かせてもらった。
もう目の前は津の海、そこに葦が沢山目立つ大型の海の家のような木造の建物がある。
いろいろなアーティストが唄いにきている場所だ。
この日も友人も沢山いて、はじめてでもなんだか何処かで会っているような
人たちばかりが、この入り口のドアもはっきりとしていない不思議な空間で唄い演奏し、喋り、飲んでいた。
瀬戸口修氏はお酒を控えているというのでビックリしたけれど、確かに本番の酔っ払っていない瀬戸口さんは新鮮だった!
さかうえけんいちさん、鎌倉研さん、それから私も短時間だったけれど濃密なステージをさせてもらった。いとうたかおさんもゆったりとやっていて、私は客席の畳敷きのところで寝転んで聴いていた。行儀が悪いけれど、みんなそんな感じで聴いていて、でも耳だけは厳しいオーディエンスであるのを知っている。
みんなキャンプするひともいるけれど、私はツアー初日、宿舎をとって海の家を後にしたけれど、また唄わせてもらいたい場所だ!

翌日は、四日市の駅前のフルハウス。これで3回目なのだけれど、今回はちょっと特別な四日市なのだ。
はじめて四日市でうたわせてもらったのは4年前で、それから小川あゆさんと蘭光(らんちゃん)がいつも自前で運転から宿舎<民泊多し)の手配をしてPAからあゆさんの素晴らしいMCまですっかり御世話になっていた。
あゆさんのパートナーらんちゃんが脳の病気で2008年に倒れて、それから春が来て、私は病院のらんちゃんと会った。でもこの人は大丈夫だなぁ、と思った。本人がしっかりしていたし、なんといってもあゆさんはじめ家族や周りの人達に囲まれて孤独でなかったからだ。「また来るね」と言って別れて、
まさかその年の秋にらんちゃんがライヴの客席にいてくれるとは思わなかった。凄く嬉しかった。このフルハウスのライヴがらんちゃんライヴハウスデヴューだったそうで、それも嬉しい。
民泊はドリトル氏宅。いつものメンバーがいつもの場所にいられることがとっても楽しかった。
あゆさんは少し痩せていたけれど、強い人。それを支える素敵な友人たちも素敵だ。一杯だけのビールにゴキゲンのらんちゃん、今度は一緒に演奏したいけどな、オートハープは重いし、マンドリンも大変だし、ウクレレはどうだろう?
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

電話で英語

爆睡!と思っていたら部屋の電話が鳴った。
RACHEL FARO からだった!
わ〜!はじめて喋った!本物だ!今までメールのやり取り<苦労したな)だけで、とりあえず今回の旅で逢える事になっていたのだ。彼女はゆっくりとした話方で、私にわかるように簡単に用件を伝えてくれた。
まだマイアミにいること。そう、彼女はスタジオや自宅はマイアミなのだ。
NYのお母さんの家でリハーサルと食事をしようということで、場所と電話番号を教えてくれた。とっても忙しいのだそうだ。でもその声は優しくて、私たちが無事にNYに着いたことをとても喜んでくれた。
ともあれ、アメリカに着いてはじめて話す長い英語もゆっくり聴いてくれた。
アメリカ上陸を更に実感して就寝。

翌日、早く目を覚ますとMちゃんも起きてコーヒーを入れていた。部屋はアナログテレビとあんまりお湯の出にくいお風呂という環境なのだけれど、コーヒーマシンだけはあって、掃除に来てくれたメイドさんにチップを奮発して、掃除はいいからコーヒーいっぱい頂戴!みたいに言ってみたら滞在中十分すぎるほどのコーヒーのパックをもらった。やったね!
とにかくホテルの食事は高いから、コーヒーを飲んで外に出る。流行っているのはスープやさんだ。10種類以上あるスープを頼むとパンがオマケで食べられる。滞在中に一番利用したな。$5ちょっと。Mちゃんは甘いものが好きなので、随分ケーキにも挑戦したけれど、これはどれも失敗だった、、、。
スーパーで買ったヤマザキパンみたいなメーカーのバナナマフィンが一番ヒットだった。
昔私が住んでいた西海岸では、ちょうど自然食ブームでなかなか美味しいくて
体にやさしい食べ物を売っているところがそこ此処にあったのに、NYのダウンタウンは安全になったこともあって、観光客用の高い店か、日本でもあるファストフード<世界的にか)が多くて、とにかく歩いて探すしかない。
街を移動してグリニッジ・ヴィレッジのほうまで行ってみた。もちろん地下鉄。昔はトークンというコインを買って乗ったのだが、今はカードになっている。カードを買うのも智恵がいる。乗り換えが難しい。。。って?日本の都会の地下鉄に比べればあまりにも単純だとMちゃん。。そうです私があまりにもわからないのです。。。よく二十歳そこそこで、あの危険な地下鉄に乗ったり、夜中の街を歩いていたもんだ。。。ぞっとするね。

グリーニッジ・ヴィレッジも観光客で溢れていた。そしてそこにある店も完全に変わっていた。でもはっきりと覚えている道の名前は変わっていなくて、どんどん歩いて南下するとそこはかつて毎晩通ったコーヒーハウスやクラブのある一角。KENNY'S CASTAWAYという小さなコーヒーハウスも健在だった。そこで私はいろんなアーティストを聴いた。エリック・アンダースンと再会したし、そしてレイチェルさんをはじめてみたのも此処だ。その日の出演者のリハが始まっていたけれど、なんとなく夜まで待つ気がしなかった。。。必死に新聞スタンドでヴィレッジプレスを探すのだけれど、どこも置いていないか売り切れなのだ。今はネットがあるからなぁ、、。どこか一軒でも音楽を聴いてもよかったのだけれど、そういう気持ちにならない空気。。どっちがかわったのか?
自分?時代と街?
でも、なんとなくあてもなく散歩するということを私たち二人とも普段していなくって、Mちゃんはハイヒールにスーツでカツカツと駆け回っているし、私は重たい荷物を担いでヒーヒー言いながら歩いているから、この抜けるような青空の異国の夏休みを「おなかすいた〜、ねむたい〜、どうしようか〜」と
言いながらブラブラするだけで物凄い贅沢だ。
雨の日が一日あって、ホテル近くの雑貨やさんで可愛いフクロウの絵がいっぱいプリントされた長靴を売っていて、Mちゃんが私にプレゼントしてくれた。
Mちゃんやっぱり可愛い傘の絵のを買って、そのままそこで履き替えて、
MOMAに絵画鑑賞に行く。けっこうみんな私達の足元を見ている。
MOMAには私のダイスキな作家の絵があるはず。アンドリューワイエスのクリスティーヌの絵だ。この近代美術館も物凄い人で溢れていて、なんともビックリしたのだけれど、随分歩いて歩いて登ったり降りたりしてやっと見つけたワイエスの一枚。もう一枚オキーフの絵も探したのだけれど、何処かに出張しているようで探せなかった。でも満足、私が確かに、この絵の前で何時間も過ごしていたことを確認しにきたのだ。

雨が二日続いたけれど、ホテルで休んでは外に出たり、食べてはまた昼ねしたりで週末を過ごし、翌日日曜日、いよいよレイチェルさんと逢うのだ。
お母さんの家というのはマンハッタンのずっと北の非常に高級な場所で、お店も歩いている人たちもちょっと違う。観光客もいない。
説明どおりにバスを乗り継いで行く。私でもわかるNYの道は嬉しい。とにかく道の名前が住所のようになっているから迷子にはならない。
着いてビックリ!すっごく高級なそれも威厳さえ感じる大きなアパートメントで、入り口にはガードマンがいて、何処に行くのかたずねられたけれど、お母さんの名前を知らない、、やっと通じて三越本店みたいなエレベーターで部屋の前に。レイチェルさんが迎えに出てきてくれた。髪の毛は写真で見るよりすっと長くてストレートになっていて、ていねいにお辞儀の挨拶をして招きいれてくれた。まるで集合住宅とは思えない大きな部屋がいくつもあって、一番奥の日当たりの良いリビングに通されて、、、でもお互いになんだか微笑み会うばかりで、、変な感じ、、おかしいけれどしばらくそうだった。
Mちゃんも英語は話せるか?とレイチェルに聴かれて、イヤソノ〜エヘヘ〜みたいなことをどうやって英語で話すのか、、、。
しかし、お土産に持っていったお箸とお箸袋を渡した頃から空気和らぐ。
なんでも、彼女は翌日からカナダのサスカチュアンのチベット仏教の道場のセッションに参加するのに箸が必要だったそうで、この流行のエコ箸は大いに役に立ったようで、お母さんのニーナさんにも渡して大喜びしていた。ニーナさんはクラシックの歌手だったそうだ。
まずは、10月のコンサートの内容と条件の確認。特にホテルのこと、そして費用のこと、なんと電卓まで出てきてシビアな社長会談になった。全て私が招待するわけだけれど、私だったら「お任せします」で終わるのだが、飛行機会社やホテルやその他細々と注文があって「はい、わかりました」という、、。
人間、お互いにこういう真剣な事柄になると、なんとか会話できるものだ。
ひとまずお話終わりで、本題のリハーサルなのだけれど、これは超簡単だったし、なんと彼女のダルシマはちょっと壊れていた。でも一緒に「道端でおぼえた唄」〜DaggarDance」を交互に歌ったときはお互いにちょっと涙が溢れてきた。彼女の心の中はわからないけれど、私がこの場所でこんな風にレイチェルと唄っていることも、これから日本でツアーをすることも想像だにしていなかったのだから、もっと感激してもいいくらいなのだけれど、あまりにも自然の成り行きのように思ったし、レイチェルも何度も信じられないと言いながらも、ずっと昔からの知り合いのようにそばにいた。
翌日早朝にカナダに行くという彼女は荷造りで忙しく、私とMちゃんは、お母さんや従兄弟や若い友人などと簡単にチキンやおつまみでキッチンパーティーになった。
レイチェルが疲れるといけないので、早めに失礼したけれど、帰り際に
「凄いおうちですね」と言ったら、自分も呆れてるみたいなことを言っていて、彼女は一人で子供も育てながら、プロデューサーという仕事もして、マイアミの暮らしはよくわからないけれど、きっと質素な生活なのだろうと想像した。音楽で大金持ちになるのは一握りの人たちだし、一緒に唄っていて、そういう匂いを感じたのだ。もっと深い話ができればわかることもあるだろうけれど、とにもかくにも、このNYでの一番大切なやるべきことをして、豪華アパートのガードマンさんたちにオヤスミナサイを言って、帰りは地下鉄でセントラルパークまで。
残された二日間でなにをしよう?
やっぱりグラウンド・ゼロに行こう!
地下鉄の駅名は「ワールドトレードセンター」まさにビジネス街だ。お昼時に着いたので、多くの人たちがランチを食べに外に出ていた。その街に広大な工事現場がある。外からは何も見えない。フェンスで囲まれているそこには、これからあの出来事を忘れないための大掛かりな施設建物が建設されるのだそうだ。
観光客がいたのは、その近くにある教会の中の展示室。主にそのときの消防士の人達の功績を讃えているものや、日本からの千羽鶴などもあったけれど、とても小さな場所で、きっとこれからつくられる建物はどういうものなのだろうか? 長い時間いたい場所ではなかった。人々は忙しそうだったし、工事の音と車の音がいやに大きく聴こえる場所。

最後の休日、快晴! もう一度グリーニッジヴィレッジやSOHOのほうに行って見ようよ、というわけで、慣れた感じで地下鉄に乗る。
最後にMちゃんにも何かプレゼント、、と思って、路上のアクセサリーやさんで、ピンクの石の指輪を値切って、しかも半分だけカンパというケチくさいプレゼントになっちゃったけれど、喜んでくれて、、すまぬ、、、。
メキシコ料理を食べていなかった!そうそう、アメリカで美味しいのはメキシコ料理で次がチャイニーズだった。ということで、うれしいマンハッタンの南のお洒落な通りに面したメキシコ屋でタコスとエンティラーダを頼んでワインも飲んで、沢山歩いた。
ブロードウェイのミュージカルもブルーノートのライヴも行かなかったけれど
Mちゃんが、カーネギーホールの入り口で笑顔で挨拶するポーズの私の写真を撮ってくれたし、なんといっても良く寝てよく食べ、よく歩き、話して笑って
こんなに体に良いことをしたのはお互いに久しぶりだったのだから、凄く充実していたのだ。
最後のディナーは、ヴェトナム料理屋をみつけたので、チャーハンとを一皿と生春巻き一皿を食べて乾杯。滞在中一番美味しい食事で安くて、だいたい物事はこうやって終わり頃にイイコトがやってくるものだ。

帰りの日。成田の時みたいに座席が変わったらいいね〜なんて話していたけれど、帰りはしっかりエコノミーで、それでもJALのエコノミーはまだまだ捨てたものではない、、。行きよりも短く感じたのは、楽しかった日々の証拠。
お昼過ぎにケネディイ空港を発ったのに、到着はその日の夕方で、時空を飛び越えてちょっと沖縄から帰ったような、、成田から家までのほうがずっと長く感じる。
久しぶりに美味しい玄米のオニギリをいただく。迎えに来てくれたKくんが私達のために作ってくれていたのを成田エキスプレスの中でほうばった。
Mちゃんが「美味しい美味しい」を連発して平らげていて、普段お米をあまり食べない彼女の食べっぷりに嬉しくなった。

7日間の旅、行かせてもらえてよかった! 
NYは不思議な街だ。歩いているだけで嬉しく元気になるのだ。それは昔にも感じたけれど、これだけは変わっていない。小奇麗になってしまった部分もあるけれど、行くところに行けばまだまだ様々な差異があるはずで、今回はおとなしく怖いところに行かなかっただけだけれど、高層ビルが巨大な林のように建っているダウンタウンでも、不思議なことにみあげると空が大きく見えるのだ。
また行きたい病になってしまう街、Mちゃんご夫妻に感謝。
また行こうね。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年01月15日

NY、にゅーよーく、ニューヨーク

御世話になってばっかりのお友達のMちゃんから「一緒に旅行に行こうね!」と誘われて何処に言っても良い??というMちゃんのご主人の太っ腹にビックリしながらも「ニューヨーク!」と二人して叫んでしまったのが2009年春のこと。Mちゃんのご主人と息子殿は二人して冒険好きというか、歴史探訪、そして秘境めぐりが大好きで、Mちゃんキャリアを持った多忙なワーカーであるので、お休みのときは死んだように家で寝ていたい人なのに、今までずっとその秘境めぐりの旅にお付き合いの家族旅行をしてきていた。私にもエジプトの砂漠の砂とかお土産にいただいたり、ナスカの地上絵の話やら、まぁ本当にうらやましくもあり健気でもあり、、。
昨年一緒に父の散骨に立山に付き合ってくれた旅は、私たち長い40年近い歴史始めての二人旅で、そのときに二人で室洞で大騒ぎしながらビール飲んで、
国民宿舎で沢山飲んで、まぁ女二人の修学旅行やって、Mちゃんはそのときの旅がとても楽しかったことをご主人に話したら、まぁ「奥さん元気で留守いい」というよりも奥さんがゴキゲンなことは嬉しいのだと思う。。。そういう経緯でニューヨークという秘境の正反対に行くことになったのだ。

出発の日、成田空港でMちゃんと待ち合わせ。
私はいつもツアーで使っている簡単なキャリーケースひとつ。なんと知らないことばかり、、、液体のものは預ける時にも制限があるので慌てて容器を入れ替えたり、大騒ぎのスタート。出発を待っていると、なんだか私の名前をアナウンスしている、、、でも私トイレの中。。。戻ってみるとMちゃんがニンマリ待っていた。なんでも座席の空きやバランスのためにエコノミーからビジネスクラスに席を変えてくれないか?と聞かれたらしく、「ひゃ〜!そんなラッキーあっていいの???」と素直にOK!をして、私たちは12時間少しのフライトを産まれてはじめてのエグティヴなそれもJALの最新鋭のなんとかシェルとかいう酸素カプセルみたいな座席で飲み放題、食べ放題という時間をいただいた。
しかし、いくら飲み放題食べ放題といわれても体動かすわけでなく、この12時間は働きづめの私達には最高の熟睡時間であって、とりあえず眠ることにしたのだけれど、まわりの中年男性の団体様ご一行が、飲む飲む、食べる食べる、騒ぐ騒ぐという遠足状態で、でも嬉しいんだろうなぁ、、、と。。だってこんなのウッソみたいな幸運だもの!

ケネディ空港では、現地の代理店の男性が私たちを車でホテルまで送ってくれることになっていた。日系3世という彼はずっとジョークを飛ばしながら、とにかく今のNYは非常に安全であることや、道すがらの建物やお店の説明を話し続けてとても賑やかで、あっというまにダウンタウンに着いてしまった。
あ〜久しぶり〜という感激をする暇もなかったけれど、まさに碁盤の目のマンハッタンの道の名前を見ながら少しずつテンションが上がってきた。
私たちが泊まるのはブロードウェイ近くのホリデイ・インで、観光客が殆どの大きなホテルだ。
私が一人旅をしていた頃には絶対に泊まりはしなかった雰囲気のホテル。あの頃はこだわっていたね〜そしてつっぱっていたね〜
こうして友人の好意でここまで連れてきてもらっただけで、もう感謝で泣きそうになる。
夏の終わりのニューヨーク一日目は散歩とご飯で終わりそうだ。
急いでホテルを出てセントラルパークの近くのレストランを物色するのだけれど、何を食べていいのかわからない、、、。なるべく安いのがいいのだけれど一日目のディナーだし、、アメリカっぽいダイナーに入る。。。しかし、まわりのテーブルの人たちの食べている料理を見回して、やっと気づいた!アメリカンな食べ物の味と量に、、、。
Mちゃんとのはんぶんこご飯が初日からはじまる。一皿で二人はお腹いっぱいになる、そしてすっごく胃が脂っこくなる。
新聞から食料品など売っている小さな商店、ここは中国系のひとがやっていて
私はヴィレッジ・ヴォイスというタブロイド版の新聞が欲しかったのだけれど
ない!と言われる。3件くらいいったけれど何処にもない。あれがあれば、何処で面白いライヴをやっているとか、、わかるのに、、と思いながら、とにかくその夜は爆睡!GoodNight NY♪
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年01月14日

2009年8月のこといろいろ

7月31日の「ひかり祭り」は三日間の祭りなのだけれど、8月1日には
「憲法九条フォークジャンボリー」が東京新大久保であって、私は参加することになっていたので忙しいことになってしまった。
沢山の表現者の人たちがいて、知っている人も、それから本当に歌声運動を続けている合唱のひとや、だいたい一人もち時間は15分くらいで、あっというまにステージは変化していく。このフォークジャンボリーも二日間あるのだけれど、私は翌日はまた「ひかり祭り」に戻るので一日目に参加になったのだ。
数年前は上野の水上音楽堂でやっていて暑い盛り、野外のコンサートの雰囲気も好きだった。4年前の上野のフォークジャンボリーの翌日に高坂一潮さんが脳出血で倒れたのだったなぁ、、。そんなことも思い出してしまうけれど、
今回は新大久保のアールズアートコートで。
「憲法九条」というコトバが最初につくフォークジャンボリーはいろいろな場所で行われていて、私も何回も参加させてもらっている。
「ケンポウキュウジョウ」を守るということイコール平和ではなく、これは政治だけの問題でなく、そして私自身はこの九条という響きを聴くたびに、自分にも(こころ)刺さっているエゴと向き合う。ただ、この素晴らしい法は世界でも稀な法であって、長い歴史の中で日本という島国がしてきてしまった沢山の過ちや、また沢山の犠牲の上に産まれた63年前の条文は誇り高き約束だ。
私に刺さっている矢は、多かれ少なかれ殆どの人間に刺さっているかもしれない。ただ、20世紀後半から21世紀に生きることを決められた人達が、自分の心に刺さったエゴと闘うことが一番難しいことなのだと思うし、渋谷でしゃがんでいる子供達と、貧しいアフリカやアジアや南米などのスラムやキャンプでしゃがんでいる子供達も皆同じ人間でありながらにして差別があり、不公平であって、ちっぽけな自分は?と考えるための「九条」でありたいと思うし、まずは自分の目の前の人の足元くらい灯りで照らせるようになりたいのに、本当に照らされてばかりいる。人の足元照らせば、自分の足元も明るくなるのに、いつもそれを忘れる。
そして、悪い人達(誠実でなく、エゴだけで生きている人)は沢山束になって結託しやすいのに、どうして善い人達(誠実な人達)の声は小さくて集団になりにくいのか? 庶民に知らされていないことを、本当に正確に伝えてくれる人達が欲しいとも思う。文きり調に「九条キュウジョウ、、」と叫びたくはない。今日もこんなに素晴らしい約束をした国の何処かで、武器が作られたり、
大小の差別があったり、友達同士が憎しみあったりしている。。。その根本の本質を痛くても感じて、出切れば自分で抜くことは一生出来ないかもしれないけれど、刺さっている矢の存在を自覚して、今いる処で自分のたたかいをしていこう。。。それが私の「九条」。そういうオモイで「She said NO!」を唄わせてもらった。唄は一瞬だけれど、唄い続けていくことは一瞬の連続になればよい。大変なやりかたを始めてしまったものだと毎日思うけれど
善き人達と沢山出会いたいし、話したいし、唄いたい。

翌2日、再び牧郷へ。この日は豪雨。昼過ぎに会場に行くと、雨でぐっしょりm濡れながらもステージでは演奏が続いていた。元校舎には食べ物も豊富にあって、どれも美味しくて安い。
私のアルバムジャケットやDVDの撮影をしてくださっている井出情児三一家も三日間キャンプをしていたようで、一人娘サヨちゃんはドロンコでゴキゲンに踊ったりしていたけれど、機材や楽器や運営している人達はそれはそれは大変だったと思う。
直子に会うと、すっかり疲れていて体中にシップを貼っていた。全ての人たちに気を使いすぎて、、、しかしこの日も彼女のステージがある。
メインの校庭のステージでは前日に新大久保で会った寿の二人が演奏シテイテビックリした。みんな元気だな〜
この祭りがこの年で終わることや、直子のお母さんのことなどで、特別な企画が沢山あったようだ。
直子のステージに私はダンサー&シンガーとして参加。「え〜踊れないよ〜」と言ったのだけれど、フラの先生もいるし、衣装はキヨシローくんやどんとなどの衣装を作っていた女性がみんなのイメージでわざわざ用意してくれて二度ときることは無いかもしれないような衣装だし、そして唄はどんとの「波」だし、、、ということで、控え室の教室では女子が大はしゃぎで着替えたりメイクしたり、直子もすっかりキラキラなメイクになって、この夜の体育館でのラスト近くの出し物がはじまった。
私の衣装も波のような虹のような「ドナタデスカ?」という変身ぶりなのだけれど、たまにはこうして自分の殻から出てきてフラして波になりきるのは気持ちのよいものだと思った。
着替えて賄いのグリーンカレーを食べる頃も雨は激しく、外のステージでは
ムッシュかまやつさんたちのバンドが演奏していたけれど、体中ドロドロになって牧郷に泊まれないので、一日だけ「波」の演奏にだけ奈良からやってきた
長田TACOちゃんに藤野駅まで落としてもらい、電車に乗ると、昔、そう、ほんとのむかしアメリカのバークレーに住んでいたころに友達になって随分会っていなかったヒロくんにバッタリ会う。みんないい年していても祭りと聞くと血が騒ぐのだ。ほかにもその時代の友達や、唄の旅で知り合った遠い島の人などにも沢山会った。地域をも巻き込んで、すこしづつ育った手作りの祭りには
そんなふうに距離や時間を越えて人を集めてしまう力があるんだなぁ。
直子さんありがとう。頻繁にあえなくても友達でいてね。

8月3日で禁煙3ヶ月。今回は楽な禁煙だった。<今回というのは、次回もあるのか?)でも結婚と禁煙は何度したていいじゃないの、、でもないか、人に迷惑かけるときもあるからな。それがわかっただけでもよしとして、一人お祝い。奇しくも息子の誕生日。

7月でレコーディング全て終わったように書いたけれども、正確にはこの後まだ三日ほど仕上げがあった。お盆を挟むと工場はお休みなのでかなりギリギリの作行だったけれど間に合った。

8月はツアーをしないことに決めていた。上半期、旅と録音でほとんど丸々休みの日が殆どなかった。みんなそうなのだけれど、やはり重たいものを持っての移動は凄く体に負担がかかる。

9日の日曜日の昼間、聖蹟桜ヶ丘の「草苑」にてソロのライヴ。久しぶりの草苑には、昼間だからというゆったりとした雰囲気が流れていて、私は生唄でやらせてもらった。生は声に負担をかけそうになるのだけれど、なにも大声で唄わなくても聴こえるように唄えばよいのだな、、と最近思っている。難しいけれど、マイクがないと、なんだか自由だ。
終わってから美味しいお料理も少しだけいただき外に出るとまだ明るかった。

世の中は例年通りお盆やすみだけれど、2009年の夏は衆議院選挙の前で賑やかだったような気がする。
個人的には私は二大政党化というのはあまりよくわからない。本来は人物本位の選挙が良いのだし、でも国の中央だけにあんなに沢山議員がいるよりもっと地方の地元に仕事する人達がいたほうが良いのに、そういう自治体の議員の人達のことは地元の人しかわからないし、、、あ〜もうちょっと魅力があって嘘つきじゃなくて頑張っている人達がいないのかしら、、、と思う。
政権交代ということがマスコミで一番とりあげられた話題だったし、とりあえず変わってみないと何もわからないし、動かないから、時間はかかるかもしれないけれど、そうやってテレビに出ている人たちが喧嘩している間に、もっと「デキル人達」が生まれてほしいし、私の生きている間に、あ〜ほんとうに選挙であの人に投票してよかった!!と思えるような政と庶民の間柄になりたいと念願。

父親の三回忌。2008年に父の骨の一部、ほんのちょこっとを富山の立山の室洞口にまいてそれから一年。今回は一人で行く。
去年よりアルペンルートの入り口は寒くはなく、ビールの500mℓを買って、此処だったであろう、、、という場所で一緒に飲んだ。見事な絶景で、
やっぱり此処まで連れてきてあげてよかったとも思うし、元気なうちに二人で来てみたかったとも思う。やろうと思えば出来たのに、、、正直に言って、
父親より恋で急がしかったり、子供や生活を言い訳にしていて、、。自分が親になってはじめてわかることばかりで、親孝行で奮闘している友人を見るたびに頭が下る。もともと一人は嫌いな人ではなかったけれど、娘と好きな山に登れたらもっと楽しかったはずだ。ともかくも、毎年これからもお酒を持って来るであろう室洞口で、アリガトウを何回もつぶやく。
山から下りて、市内のカプリチョという以前にも唄わせてもらったお店でシークレットライヴをさせてもらう。2年前にこの店で本番の直前に電話が鳴り
父が白血病で倒れたことを知らされた。倒れた割には元気な声を聞かせてくれて、その後の四ヶ月苦しまず、痛がらず、煙のように逝った後に、みんなから
娘孝行なお父さんだね、、と言われたけれど、カプリチョに入ったらあの夜のことが蘇ってきた。そのときの私を知っている人達もいたので、なんとも温かいささやかなお盆ライヴになった。

8月27日から6日間、32年ぶりのニューヨーク旅行がはじまった。
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2010年01月12日

2009年覚書7月後半

盛岡から帰ってから数日後、近藤達郎家で「ひかり祭り」のリハーサル。
坪田直子ちゃんのサポート。ピアノは近藤だいちゃん、ベースがどんべいこと永田純くん、そしてギターとコーラスが私。この日には来れなかったけれど、
パーッカッションがマック清水さん。なんだか同窓会みたいな顔ぶれだけれどここにタコヤキこと長田和承がいたら完璧だ。そういう時代がむかしむかしあったとさ〜という一日だけのバンド。それぞれの道を歩いてきて、なんとか元気でいて、すっかり忘れていた曲も、だいちゃんのピアノが鳴ると思い出してくる。私の創った「ねぇ私がわかるかい?」のファンクヴァージョンもあって、自分でつくったのにわ〜!手が動かないぞ〜!かなり真剣で緊張するリハーサル。だって直子主役でまちがえたら、、、久しぶりにドキドキしてきた。
本番までに練習する時間をつくるのが大変だ。

18日(土)富士の「アニマルハウス」ば高速バスで御殿場インター待ち合わせと紹介してくれた御殿場リンコロの小澤氏に言われたのだけれど、東名川崎のバス乗り場というのを探すのにひどく苦労をしてしまった。なんと山の中の藪みたいなところに細い石段があってそこを登っていくのだと!タクシーの運転手さんが「お客さんその荷物持って無理だよ」と車をそっちのけにしてちっぽけなバス停まで登ってくれた。大渋滞の中やっと合流。アニマルハウスというお店のツルさんというオーナーはお蕎麦屋さんもやっているとのことで、本当はお蕎麦屋さんがいいなぁとおもっていたけれど、アニマルハウスは雰囲気のある素敵なラヴィハウスでかなりロックなお店なのだ。ロックと蕎麦がツルさんは好きなのだな。楽しそうにしていたけれど、忙しいらしくオーナーツルさんとは言葉はあまり交わさなかった。オープニングアクトにエリカさん、カウチポテトくんという若い人と一緒で、スタッフも若い人たちだったし、ステージもちょっと高い位置にあって、結構がんばっちゃったかな。
そのツルさんが、その後4ヶ月後に亡くなった事を年末にリンコロで聞いてびっくりした。また逢いたい人だった。。。とてもぶっきら棒でシャイなひとだったから。静かな寂しさだった。。。
富士のあとは御殿場リンコロに御世話になった。リンコロのステージはスタジオみたいに防音だから熟睡の場所。ありがたい。
翌日はリンコロでライヴがあって、レインマンという若者元気バンドと寺田町さんというシンガーソングライターのジョイント&バースデイライヴを客席から観戦!若いぞ、そして飲む飲む!寺田町さんとは名前だけは知っている仲という、そうお互いが旅の唄うたいだから、すれ違っても会った事がない同士だった。こうして会えるのは本当に珍しいこと。そしてその夜が寺田町さんの誕生日で、朝まで私の寝室であったリンコロの部屋がお祭りになっていた。
楽しいお休みの日。
翌日は沼津の「P-STAGE」新しいお店のようだけれどオーナー横井さんが一生懸命お客さんを集めてくださり、終わってからは、終電に間に合うように一生懸命私の荷物を持って一緒に駅まで走ってくださった。沼津というところお魚も美味しいのだろうし、一晩くらいゆっくりしてみたかったけれど、この翌日からはレコーディングがあるので短い旅になってしまった。

三日間、近藤宅のスタジオにて弾き語りのレコーディング。
「山」ダルシマで。「道」。「音」。「SMILE」はだいちゃんにピアノをお願いした。だいちゃんはジャズのピアニストでないし、私もジャズではないので、いつも私が弾き語りしているような感じで自然に弾いてもらった。でも丁寧な音色だ。
その間にベースの松永さんが「秘密はひみつ」にコントラバスをつけてくれた。仕事の早い人だ。数回聴いて、2回テイクでOK!
そして余計なことはしゃべらない人。なんと潔い。そこが近藤氏とも共通<似てないけれど)する精神で、こういう人たちの仕事に触れるとそれだけで心に綺麗な風が吹いてくる。

7月26日 日本橋の天婦羅やさん「神尾」にて、生音ライヴ。なんと
¥2000でライヴと天婦羅やお料理が食べられるというのだ。
企画してくださったKさんは、この「神尾」のオヤジさんと寄席や私のようなシンガーのライヴをはじめてしまったのだけれど、二人とも真面目で、真面目は良い意味で頑固でもあって、いろいろ大変なこともあったろうに、おかげさまで真夏の猛暑の昼下がり、唄い終って、まぁ江戸前天婦羅やら、なにやかや、申し訳ないようなありがたい一日をオヤジさんK&Kのお二人はプレゼントしてくださった。いつかああいうところに人にご馳走にならないで行きたいものだ。でもご馳走されるうちが花か、、、も。

翌日から、録音した10曲のミックスとマスタリングがはじまる。
全てを今回は近藤さんにお願いしたから、私がずっといても邪魔になることもあるし、なんといってもこの音決め作業が一番時間がかかるし、神経を使うから、私は家で待機していて近藤宅から電話が入ってから聞かせてもらいに行くということにした。
最後のマスタリングで曲順を決める。「今夜彼女は台所を棄てた」を一曲目にするといったら、だいちゃんは「お〜そうきましたか〜」というようなやりとりで、とにかく音がとても自然に仕上がっているのと、時間はかかったけれど、私自身が揺れることなく<悩んだし金策もあったけれど)みんなと気持ちよく作業できたことが全体から伝わってくるので、大満足のうちに工場へと音たちは送られていった。
その後すぐにジャケットの仕上げ。
選んだ写真は井出情児さんに撮ってもらったときから決めていたものだったから、これも迷い無し。いろいろ言われるだろうな。。。。と思っていても、腹が決まれば良いのだ。人から言われてもそうなっていればきちんと耳も心もそれを聴ける。

7月31日。藤野牧郷「ひかり祭り」
藤野の駅に着いたのは夕方。
出番が夜遅いから、ゆっくり到着して元牧郷小学校にバスで行けるはずだったのに、昔は車だったからバスの本数など考えていなかったけれど、かなり待つ。
バックパックや寝袋など背負った人たちが何人もいたけれど、私は出番があるから少し心配になってきた。
何台かの車が駅前にやってきた。「ひかり祭り」に行く人「乗れますよ!」
助かった!久々の逆ヒッチ!懐かしい! まるでウッドストック!!
牧郷ラボは島田力(ツトムくん)と直子ちゃん夫婦が廃校になった小学校に移り住んで、そのうちいろいろなアーティストも集まって子供たちも沢山いて、
そんななかで生まれたお祭りで、映像プロデゥーサーのツトムくんの才能、直子の丁寧な一生懸命な才能と沢山の人たちが出来る限りの智恵を集めて年に一回夏の終わりに開かれる美しいお祭りで、遠くからも星屑のような人々が集まってくる。
今回は直子のママが亡くなられてのお祭りなので、特別な想いがあって、直子はもう、全てを仕切っていた。
そして彼女自身のステージ!
さっきまで泥だらけで走り回っていたのに、衣装替えしてメイクしたら、さすが!女優のツボタナオコに変身したし。どうしてあんな風にポーズが決まるのか?5曲あっというまに終わってしまったけれど、体育館のステージのスクリーンには直子のママの写真やキッドブラザース時代の直子や、見てるだけで涙が溢れてきてしまう映像が流れ続けていた。
翌々日にもう一回、ステージがあるので、だいちゃんの車で都内まで乗せてもらってひとまず帰宅。
充実の7月が終わる。
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2010年01月10日

さてさて私の記憶が正しければ、、、、

2010年1月10日から始まる2009年7月からの日記です。
日記とは言えません。しかし記録をとどめておくことは私のしておきたいことです。しておきたいのにすっかりしなくなったのは、私の元来のサボリ癖と、
体力気力の弱さです。

言い訳はここまで。

2009年7月はこの数年必ず敢行する長い東北ツアーです。
岩手に住む旅のシンガーソングライターやなぎ君と途中で合流するというのがかたちになっていきました。彼は車で日本中を旅して私よりずっと沢山の場所で唄っている人なので、人との繋がりも沢山あって、彼のおかげで随分といろいろな人に会うことが出来ました。数年前に岩手の自宅が全焼して、仮住まいになって、そして新しい家にまた引っ越して。やなぎ君本人も素晴らしくエネルギッシュだけれども奥さんのみゆきさんはそれ以上にタフ!そして、岩手を旅するときは必ずやなぎ邸に御世話になるのだけれど、ほんとうに人に気を使わせない人たちで、最近は子供達がそれぞれ家を出て行って生活しているから、やなぎ君が自宅にいるときは夫婦水入らずで、これがなかなか素敵。
つかず離れず、しかしお互いをしっかり尊重しあっていて、私は今までに双方の口から相手への愚痴のようなコトバを聴いたことがない。あるようでないのがこういう夫婦。いつもべったりいないほうが良いのかな、、、。横浜っ子の二人が携帯の電波も入らないような北国にやってきて三人の息子を育て、いろいろな苦労をして、私より年下であるけれど尊敬するところがいっぱいある。
似たもの夫婦というけれど、思うに、同じような精神レベルの人間同士でなければ一緒にいられないわけで、みゆきさんにしたって最初はふるさとが恋しかっただろうし、子供達だって都会では考えられないような不自由もあっただろうし、でもそういう不便さや湧き上がってくる不満を、日々の暮らしの中で何か楽しいもの美しいものに転換させてきた現在なのだろうなぁ。

青森で闘病生活をしている高坂一潮さんにやなぎ君と二人で会いに行くのも三回目で、同じ唄うたいという、そして何回か楽しく愉快なツアーをした仲というだけの友人であるけれど、一潮さんに会いに行くことは私にとって「待ってるよ、それまで頑張るからね」という、エネルギーをもらう時間でもある。

宮沢賢治ゆかりの花巻の大きな温泉につれて行ってもらった夜、やなぎ君の家の玄関先でみゆきさんが小さな蛍をみつけてすばやく両手のひらに包んで渡してくれた。蛍をそうやって手にしたのは初めての事で、みんなで、そぉっと歓んだ一瞬だった。絶対に都会では手に入らない贅沢の瞬間。

東北ツアー
一人で唄わせてもらっている八戸の佐々木邸。共子さんという年齢不詳<私よりずっとお姉さんだけれど、私よりずっとカワイイ)がホステス役で、いったい何処で買ってきたの・というようなイブニングドレスのキラキラなのを着て
なんでも東京のシブチカのお店らしい。。。。買いに行くだけでも凄いパワー。ご近所の皆さんが集まる。お互いに元気でいることを褒めあうような会だ。だから私が少し痩せていることを心配して下さる。
佐々木宅の隣にあるのが、明治時代からの旧い旅館「新むつ旅館」此処に泊まらせてもらうのが楽しみの一つでもある。嘗ては楼閣であったという、、それだけでワクワクする場所だけれど、旧くなって修理するために募金運動をしているそうだ。いつまでも此処に在ってほしい。

奥入瀬の「ひめはうす」からはやなぎ君の車で。今回は昼間唄って、夜はひめはうすのオーナーの漆戸さんがセッテングしてくださり十和田市内の「ハミングバード」というお店の二本立てになった。ありがたいことだ。漆戸さんの
なんとか私たちに少しでも、、という気持ちが伝わる。
大好きな夏の奥入瀬渓谷の道を往復する。
ハミングバードの工藤さんも音楽が好きな人なのだと、お店に入ってわかる。
初めての店もドアを開けたときの匂いがあるのだ。映画も好きみたいだ。
そうそうひめはうすの漆戸さんはカメラマンでもあり、私の10月11日のコンサートのフライヤーの写真はこの夜と和田ハミングバードの店の隅で撮ってもらったものだ。私の気に入っている写真のひとつ。

その後、花巻せがわ京染め店、この場所でなければ会えない人達にまた会えた。しかしせがわさんのところで唄わせてもらうと、夜が長い〜〜
みんな豪傑、そしてあまりにもお酒が美味しい!おいしいからうかうかしているとすぐなくなってしまい、私は焼酎が飲めないので日本酒がなくならないように、、、とかなりサモシイ目つきで皆さんの飲みっぷりを眺め、でもまだ旅は続くので一人早めにお休みなさい。翌日は気仙沼のボルセッタ石川という写真館でのライヴ。気仙沼といったらいろいろ食べたいものがあるけれど、ぐっと我慢でやなぎ君と帰宅。
東和町「カフェほうほう」オーナーの溝渕さんとももう6年近いおつきあいになって、もちろんやなぎ君の紹介だったけれど、溝渕さんは昔「新譜ジャーナル」という音楽雑誌の編集にかかわっていたり、サーカスというバンドの仕事をしていたり、つまり東京の人であったのが、奥さんのふるさとで今は地元などのイベントやもちろんお店も奥さんと二人営みながら、毎日唄っている方で
今年も御世話になった。お客さんは少なかったけれど、終わってから音楽の話をしながらささやかに振舞われるご馳走をいただくのは、ただ騒ぐだけの打ち上げとはまた違い、ふっとアイディアが浮かんだりもする。
やなぎ君との旅はこの夜で終わり、もう一晩御世話になり宮城に行く。

宮城の栗原市の武田邸もこの数年でずいぶんと御世話になってしまっている。
何しろ自宅をお借りしてのライヴ、奥さんが一番大変。
初めての時は気が引けて、申し訳ない思いのほうがあったのに、次の時にはすっかり家族のようにさせてもらって、しかし、奥さんの明美さんも言っていたけれど、「慣れとうのは怖い」そう、そのとおりで、あまりやりすぎても、会いすぎても良くない、適度の距離が必要で、そんな仕切りなおしのようなライヴであったような気がする今年。長男の直人くんの弾くピアノが好きで、なんともいえないα波が醸し出されてくる。彼は無口だから音に込められた何かが響いてくるのかも、、。そして栗原家ライヴではスペシャルなことは、私のゴリゴリの体を丁寧にマッサージしてくださる峰子さんという素晴らしい女性がお客さんとしていらしてくれる。ケアマネージャーとしてのキャリアをもってバリバリと栗原家の妻殿同様に働いていて、さぞかし自分自身が疲れているはずなのに、私は我儘にも彼女の癒しの手を待ち構えている。
唄い終わってみんなさんが良い気分になっているスキに化粧を落とし、二階のベッドで峰子さんのマッサージを受ける。至福の瞬間、、、というのも、触ってもらって何分も経たないうちに私は夢の中だったのだ。その後、東京の10月11日の新大久保のコンサートにその峰子さんがいらしてくださっていて挨拶されたのだけれど、まさか宮城から?予約もなしで?と咄嗟のことで、そのままお礼も言っていなくて、ずっと気になっていた。この覚書を書きながら
武田さんにたった今電話してそのことを話したところ。

東北ツアー最後は、盛岡。盛岡はあの懐かしいフォークジャンボリーの印象が刻み付けられている。あの時は一潮さんも元気だったし、中川五郎さん、斉藤哲夫さん、三上寛さん、シバさん、そして地元のアーティストの人たちも沢山いて知り合いになった。
去年はよしだかずおさんというおなじ「よしだ」で七夕ライヴだった。
今回は「カコちゃん」と一緒に唄った。カコちゃんはタクシーの運転手をしていて大きな体に優しい心、場所は昔は八百屋さんであったという文化財にも指定されている建物で、板張りの床はひんやりとしているのだけれど、クーラーがないのでみんなお客さんは団扇を持って聴いてくださる。音響はいつもの
櫻井夫妻、櫻井さんの音の録り方は独特で、マイクも素晴らしいのでリハーサルはほとんどお任せになっている。
水の都と言われているように、街のいろいろな場所に水場があり、今でも共同で使われている。八戸の旅館もそうだけれど、旧くて善いものをきちんと残すにはお金も必要だけれど、人の心根が荒れてくると街も変わる。鶏とたまごではないけれど、バランスというのが大切で一番難しい道なのかしら、、、と、
移動しながら通り過ぎる景色を心に焼き付けながら。。。。

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2009年06月30日

土砂降りのち晴れ

ゲリラ豪雨などという名前がついてしまった最近の突然の大雨。日本全国で起こっているけれど、特に東京のような自然現象に無防備な場所の豪雨は悲惨だ。私は長靴を履くのが好きで、ちょっとでも雨が降ると花柄の緑の長靴を履く。北海道ツアー用には私の靴の中で一番値段の高いゴム長を履く。しかし
都留からの足で降り立った巣鴨、私はパンプス。そして駅の外は土砂降り。
駅で私を待っていてくれたまさえさんと、どうしよう、、となって、なんでも
「手風琴」というお店は駅から3分くらいのところ。でも歩けない、歩けるけれど楽器が濡れてだめになる。なんと徒歩3分をタクシーで豪遊した。このまま降ったら帰りもタクシー?いや、それよりもお客さんはもっと大変。どうか雨が上がりますように。
手風琴というお店、初めてだったけれど、結構いろんなアーティストが唄っていて殆ど知っている人たちで、マスターはとても紳士的で、着いてすぐに音ノチェックをして終わった頃にこの夜を誘ってくれた鎌倉研さんがやってきて、私とまさえさんは近くのエスニック料理屋さんへ。都留で吉田うどんを食べ損なったので麺がいいなぁ、、フォーを頼む。そうこうしているとusagiさんがやってきて3人とも違うフォーを頼んだ。温かいフォーは美味しいのだが、麺がどんどんふやけてきて食べても食べても減らない、だから一生懸命食べなくてはいけないのだ!とお店のマスターに帰りがけに言われた。米の麺も好きだ。
さぁ、鎌倉研さんとは去年「風に吹かれて」で初めて一緒にやらせてもらって以来だけれど、今回はそこに生田敬太郎さんや、瀬戸口修さんが遊びに(すでに出来上がっている二人)来ていて、奥の関係者席はおじさんのはしゃぎ場の状態だった。風にふかれてのときは私が先に唄ったので、今回は順番ということで研さんが先。
45分くらいね〜と言っていたけれどそんなわけは無い、だって研さん目当てのお客さんが殆どで、何か新曲ならぬ新ネタを楽しみにしているのだ。
何度か研さんとは会っているし、そのキャラクターも知っている、初めのころは「ネタ」で笑わないように我慢していた、、、というか彼の本当の優しさを私が理解していなかったのだなぁ、、とまた改めて思い知らされた夜になったのだ。
1時間ちょっと、唄はオリジナルもそして友達の唄も、それから上質の歌謡曲も全部で6曲?くらい?彼の場合は話しの合間に唄がある。
その話は、やっぱり我慢していても普通にとってもオカシイ!笑っちゃう!
彼でしか出来ないエンターテイメントなのだ。
どうしてもムツカシイ顔して唄うイメージとそういう空気の店と、そういう歴史のなかで『せま〜い世界』で育ってきて大きくなって、なんだか若い頃より子供になっていく私たちはどんどんこだわりがなくなってきて、良いもの、本物の枠もスッゴクひろ〜くなってきて、そしてこの夜の鎌倉研さんはやっぱり私が逆立ちしても考えられないギャグでお客さんを楽しませていた。もちろん大笑いした私。
二瓶さんというサックスプレイヤーの方がいらしていたので、私は「Cheek toCheek」に参加してもらい、「今夜彼女は台所を棄てた」と「She said NO!]には敬太郎さんのハープをお願いし(すっごかった♪)
最後は瀬戸口さんもみんなもでステージはいっぱいになって『風景」を唄った。満員のお客さん。ゴキゲンのセッション、豪華版!
そしてお客さんがお店を出る時には、一時的に雨はやんでいたのが何より嬉しかった。
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山梨の緑の中で

中央線で新宿から1時間、大月の駅に高部さんが迎えにきてくれる。
これで四回目の都留でのライヴ。
最初は高部邸が改築されたのでそのお祝いライヴだった。それから町のお店で、そして去年は元ちゃんのタイコも入ってまた高部邸にて。高部さん(今は邦広さんなので邦ちゃんと呼ぶこともあるが)とは、甲府のハーパーズミルというカレー屋さんでマスターの坂田さんは今では有名なギターつくりさんでもあるその場所で私が唄ったときに会って以来だから、もう6年目になる。
都留でもと言ってもらって、だいたいゆっくりと高部邸にて休んでゆったり唄わせてもらって、それから結構若い地域の人達と打ち上げを楽しみ、夜はシーンとした高部邸の和室に御世話になり、翌日、お母さんの手作りのお味噌で和えた畑のキューリや梅干や自家米をいただいて、それでも帰りには「吉田饂飩」〜これはなかなかウドンと表現するには難しいくらい個性のある麺でその吉田うどんの有名店(美味しいところ)で〆て帰るというのがパターンになっていた。
今回は、いつも聴きに来てくれている写真やさんの伊藤さんのお店が素敵なスタジオになったということで、まずそのスタジオで昼間のライヴ。女性に優しい時間帯。明るいスタジオ。短めででもいいよと言われたけれど、やっぱり2時間近く唄わせてもらい、終わったのは6時近く。この場所は、素敵なソファやテーブルがあって、コーヒーも美味しくて、近所の人がひょっこり立ち寄れるサロンみたいになっている感じがした。地元に育った人がお嫁さんを連れてきて故郷で頑張って、楽しんで、、、お嫁さんたちもこれがみんな元気で明るい!!いろいろ苦労は絶えないはずだけれど、仲良しを沢山つくることは大切なことだ。邦ちゃんもそういう仲間の中心的存在でこの地域で頑張っている。
伊藤家のママがちゃちゃっとパスタやレタス巻きを作ってくださる。子供たちもやってきて今夜の晩御飯になる。ご馳走様!韓国味噌の話になったかと思うとフェァリーカード(占いカードのひとつ、私はこれ好き、前向きで)のはなしに飛んで行くお嫁さんパワーも大好き。

さて今回は凄いのだ、夜の部があり、それは街中のBar「アクアヴィータ」
このお店も隠れ家のようにビルの一番奥にあるのだけれど、木の床が気持ちよい。小さなお店一杯にお客さん。なかなか静か。。。でも最後は「Yhey」やった!音楽が好きな人が集まってくれた。企画をお願いして自分が行くのは簡単なことだけれど、お客さんを集めるのは並大抵のことではないのだ。そういう苦労をしてくださる方が無かったら私など旅は出来ないし、やったとしても悲惨な夜の連続だ。なかには義理で来てくださる方もあるだろう、、でもそれこそ呼んでいる人は気を遣わねばならない。
今回の一日二回の都留のライヴは、高部さんが自分で納得する人たちに声をかけてくれているのがわかった。
そういうライヴは後味がよいのだ。感謝だ。

翌日、大月駅で高部さんと電車がくるまでお茶をいただき「吉田さん、アリガトウの反対語なんだと思う?」  単語と考えるとなにになる?
「あのね、アタリマエ」 本当だほんとう。そうなんだよ。
世の中は「ありがとう」で出来ている。

たった一日一晩だけの旅行は、さりげなく優しい働き者の人達との時間だった。

中央線に乗ると、すぐに電車がとまった。小金井のあたりで人身事故だという。1時間遅れで新宿に着く。こういう事故がアタリマエの都会のホームに降りて、夜にうたわせてもらう巣鴨に向う。
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予備校にて唄い、そして京都の奥深さは路地裏に続く

河合塾という全国展開している予備校の京都校の特別授業で唄わせてもらった。
生徒さんたちには受験勉強の時間じゃないわけだから土曜日の夕方にわざわざ唄を聴きに、それも今時の流行のアーティストならともかくも、名も知れぬ自分の親より年取っているオバサンの唄,、、どんなことになるやら、、、。
しかしそれでも10人以上の若者と、昔若者のだった方々が同じくらい集まってくださり、一時間半の「授業」が始まった。
不思議なもので、教壇に立っているとそんな経験が無くてもなんとなく「センセイ」みたいな気分になってくる、、、コワイコワイ、、「センセイ」にはならないぞ!選曲は普段より硬かったかな、、でもいつもどおりにお喋りもした。ちょうど画家の春日hるなさんから彼女のブログ日記が届いて、その中の「青年」という詩と「広い島」というのも朗読させてもらった。
私が彼等の歳の頃には、50過ぎてギター抱えて唄って喋ってくれる人はいなかった。ちょっと年上にちょっと自分よりも音楽や文学や社会のことを知っているお兄さんやお姉さんがいてそういう人たちが何処其処にくると知れば、家に内緒で遠い道のりかけてコンサート行ったり、喫茶店でそういう人たちの話聞いたりして帰りにレコード屋で教えてもらったばかりの歌い手のレコード買って、古本屋でよくもわからないけれど本も探した。
40年も経つとこんな世の中になるなんて考えてもいなかった。この日来てくれた彼等はそれでも静かに唄を聴いてくれた、はるなさんの詩も聴いてくれた。お金はないところは私たちのあの時代と同じだ、CDを買ってくれはしなかったけれど、話しかけてくれた青年達がいた。来年は東京の大学に行くからまた会おうとか、ローザ・パークスの話をしてくれた女の子もいて、それだけでも嬉しかった。アンケートには殆どの学生達が「日頃、勉強だけの生活でライヴなんて 暇もなかったから息抜きが出来て嬉しかった」という内容。
やっぱり沢山ではなかったけれど良かった。企画してくださった佐々木さんと応援してくださった皆さんありがとう。
佐々木さんとは同い年で、そういう意味ではいわゆる、ちょっと遅れてきた世代としてずっと青春時代から今までその位置を頂いて(世間から?)きて、あの時のお兄さんお姐さん達が続々と還暦、退職、とかいう時代がやってきて、
それこそ、昔は手の届かない存在だったような人達ともあまり年齢のこだわりなく会ったり出来るようになって、面白い。
私にとって古川豪さんというアーティストもそういうお兄さんの存在で、しかもレコードでしか知らないお会いしたことも、生の演奏も聴いたことのない人と一緒のライヴを佐々木さんが翌日、蛸薬師の路地裏のファルーカでやってくださった。
豪さんはバンジョーを弾かれることは知っていたし、好きな曲もあたったけれど、やっぱり本物にお会いするのは嬉しい。昔はツアーもされていたようだけれども、家族のことや、いろいろな考えがあって今はそれほど活動をされていないらしが、滑らかな声で市井の人達のことを歌う「フォーク」の人だ。
そしてバンッジョーのストラミングの美しいこと!これは人前でやっていなくても、日頃触っていなければ出ない音色じゃかいかと思う。滑らかで唄のストーリーに寄り添っていて、商店街の福引の唄も味噌やの唄も紙芝居みているようだ。
京都から帰宅すると早々にメールを頂いた。また何処かでゆったりとご一緒させてもらいたいな。
ファルーカには遠くからも沢山お客さん来てくださった。ありがたい、お店のビールもなくなりそうだった。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記