2010年02月22日

やっぱり同じだった

レイチェル・ファロ帰国の朝、私は高校のクラス会に出席する予定があり、
レイチェルさんがホテルを出るまで小日向さんと少しビジネストークをしたいと言っていたのでお願いして、銀座の中華料理店のクラス会へ。
私は女子高に通っていたのだが、3年生の半分はまともに学校に行っていなかった。それはちょうどピピ&コットというバンドがエレックレコードからデビューしたときで、学校はよくぞ私に卒業証書を出しくれたと今になると思う。
それ以後私は学友との交流もなく、アメリカに渡って帰国した時に一番仲のよかったM子と会った。彼女はもう大学も卒業してそれから今も続く仕事のきっかけになる大手の園芸店でバリバリと働いていた。私の姿を見て「あ〜これはもう死ぬかも、、、」と思ったそうだ。それが長い間30年くらいのあいだ渡しが同窓会名簿の中で(不明)から(故人)になってしまった原因らしい。
ある日道で「あの、失礼ですけれど、、吉田さん?」とクラスメートだったKさんが声をかけてくれて「あなた故人になってるわよ!」と教えてくれたのだった。今の名簿をKさんからもらって何人かに電話をしてみたのは5〜6年前のことだった。いたずら電話かと思う人もいた。そりゃそうだ、私が死んだらしいと聞いて泣いたのよ!と言う人もいて、もちろんそれから数人の人たちに会って、いまでは時々コンサートに来てくれる友達もあった。
なかなか時間が合わずに行けなかったクラス会の幹事をしていた元気なグループが、11日のコンサートにやってきてくれて、「あなた来週のクラス会で唄いなさいよね!」と言うので、強行スケジュールだったけれど、ほんの1時間ほど出席して15人ほどが昼間から無礼講でまだお元気な当時の国語の先生を囲んで賑やかに食事をしているところで1っ曲唄った。今年90歳という先生から「とにかく体を大切にね、長生きして頂戴ね」。。。そりゃそうだ、死んだはずの人間だもの。。。

大急ぎでホテルに戻り、トナカイくんがビートルで迎えに来てくれて、レイチェルさんの荷物を積み込み、成田まで。
10日間の日本の旅が終わる。
トンネルのない道を選んでの帰り道はとっても早かった。私達はあまり会話もしないで静かに外を眺めながら、時々一緒に笑った事件や一緒に食べた食事のことや、ポツリポツリと話したが、あっというまに成田空港へ着いてしまった。
レイチェルさんはカートに全ての荷物を積み込み、車寄せからは一人で運ぶから、此処でお別れしようと言う。
私もそうなのだが、駅の改札や飛行場の中まで見送られると、その旅が楽しければたのしいほど、その人がダイスキなときほど辛くなる。
泣いてしまいそうになるときもあって、どうもいけない。。。。
「ありがとう」をお互いに言いながらこのときばかりは抱き合って「またすぐに会いましょうね」と言い合ったが、彼女はクルリと重いカートを押しながら
空港のロビーに向かって歩いていった。
私とトナカイくんも振り返らずに車に乗り込んだ。同じだな、見送り見送られる時。

レイチェルさんからメールが来たのは、それから一週間近く経ってからだった。
最高に楽しかったが、ものすごく重い時差ボケと疲れで静かにしていたらしい。
それもとてもよくわかる。さぞかし疲れただろう。。。。
でも、短いメールだったけれど、「日本に行って素晴らしく温かい人達に逢い、そして自分が忘れていたRACHEL FAROを思い出すことが出来たことが一番ありがたかった」とあった。
彼女も随分と長い間ツアーまでして唄ってはいなかったし、プロデューサーという仕事に夢中になっていたから、この日本という場所で待っていた人達や初めて聴いてくれた人達から沢山のことを気づき、自分が唄うということをあらためて考えたのかもしれない。

私にとってのこの10日間は、あまりにもめまぐるしく過ぎていったけれど、
常日頃のツアーとはまったく違うものだったし、数え切れない人達の支えがどれほど見に沁みて有難かったか〜どれもこれもアタフタとしながらでも無事故で終わったことに感謝しかない。
しかし、私には時差はないけれどやっぱり体は疲れていて、そして大変大きな課題も沢山もらって、10月の半分が終わった。

  「アリガトウ」は言うはやさしいけれど、いただいたものに応えることでしかないのだから。
posted by よしだよしこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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