二日ばかり久しぶりの我が家で休んでいたが、それまでの緊張はなかなか取れるものではなかった。
久しぶりに体と声のトレーニングでずいぶんと生命力がついた。体操もやはり一人で家でやったり旅先でするのとは違い、コーチと一緒にするほうがずっと良い。同じ事なのに、客観視してもらうことは大切だ。
この間にラジオ日本の収録「フォーク魂」という深夜の番組。ラジオ日本というのは以前はラジオ関東という名前だった。私がエレックレコードにいたころ一番出演した局だった。飯倉のビルの中は少しは新しくなっていたけれど昔の雰囲気が色濃く残っていて懐かしかった。収録といっても殆ど編集がないので嬉しい。沢山喋ったのにいざ本番を聴いてみるとがっかりすることもある。
時間が勝負だからしょうがないけれど、一番言いたかったことがカットされたりすると悔しい。それから最近は小さなコミュニティFMの番組に電話で生出演するというのもあるのだけれど、これはこれで緊張する。電話がかかってくるわけだから出られる状態で待っていなければならない。翌月に控えた宮崎のFMの電話出演をすっかり忘れていて、気がついたときはもう2時間近く過ぎていて頭が真っ白になったのだけれど、慌てて自分からかけてみたら、まだ番組は終わっていなくてギリギリセーフで話すことが出来たけれど、セッティングをしてくださった首藤さんやラジオ局の方々は本当に焦っていたことだと思う。それなのにいつもの話調子で「もしも〜し〜」という私のノンビリした声にスタジオの皆さんはひっくり返りそうだったそうで、ごめんなさい。
翌日も今度は山口の光市のフォークジャンボリーの出演者のために主催者の上田さんから朝の9時10分から電話でと言われて、もう失敗はしないぞ!と電話を前に正座して待っていた。あ〜よかった。
24日、25日は福井に行く。
ラクガキ屋のヒサさんのお店で唄う。土曜日の昼間、ヒサさんの友人やその子供達が集まってガラス張りのアトリエは道行く人も見えて私はこの場所で唄わせてもらうのが好きだ。処狭しと飾られた絵葉書やいろいろなものたち、旧いカメラのコレクションやもちろん子供達の遊び道具や絵もあって、居心地が満点だ。ヒサさんの王女様のそらちゃんは2年生になっていて、はじめて春一番の芝生の上で会った頃からは考えられないほど成長していた。でも自分を強くもっているそらちゃんは変わっていなくて、そして食べることがダイスキなところも変わっていなくて。この日は子供達がとても沢山集まったのだけれど
私が唄っているあいだはみんなずっと下を向いていて、静かなのは良いのだが
唄、聴いてくれているのかしら、、と思っていた。休憩をはさんで20曲。
気持ちの良い音は寺沢さんがつくってくれる。彼も音楽をされているが、いつもこういうときは一切裏方に徹してくださる。とにかく良い音なのだ。
2時間半の長いライヴになってしまったけれど、皆さん最後まで聴いてくださり、そして子供達は?といえば、私に一人ひとりライヴ中に一生懸命描いてくれたそれはそれは丁寧で綺麗な絵をプレゼントしてくれたのだ!
だから、みんなしたを向いていたのだ!それなのに私が唄っている絵などは髪型や服やギターの絃まで細かく描いてあったり、それぞれにメッセージがはいっていたり、嬉しかった!ライヴペインティングだ!
そらちゃんの絵の中には「よしこさんとおそば食べに行こうね」と書いてあって笑った。
いつもはラクガキ屋さんの中で手作りの打ち上げをしていただくのだが、この夜はヒサさん親子たちと近所にある越前蕎麦の美味しいちょっと不思議なマスターがやっているお店でお蕎麦を食べた。最後はドロドロのそばつゆに大きな梅干を入れてぐちゃぐちゃにして飲むのだが、これが美味しい。店内はジャズが真空管アンプを通して流れてくるし、遅い時間まで開いているお蕎麦屋さんは、夜はかなり飲み屋風で面白い。
食事の主導権はそらちゃんが握っているようで、この夜の終わりは満足満足だったようだ。
それにしても、いつもお友達やご近所さんに声をかけてくれて、ヒサさんありがとう。集まってくださった方々もありがとう。
ライヴの終わりに必ずヒサさんが挨拶をするのだが、今回も泣き虫だったね!
2010年02月22日
やっぱり同じだった
レイチェル・ファロ帰国の朝、私は高校のクラス会に出席する予定があり、
レイチェルさんがホテルを出るまで小日向さんと少しビジネストークをしたいと言っていたのでお願いして、銀座の中華料理店のクラス会へ。
私は女子高に通っていたのだが、3年生の半分はまともに学校に行っていなかった。それはちょうどピピ&コットというバンドがエレックレコードからデビューしたときで、学校はよくぞ私に卒業証書を出しくれたと今になると思う。
それ以後私は学友との交流もなく、アメリカに渡って帰国した時に一番仲のよかったM子と会った。彼女はもう大学も卒業してそれから今も続く仕事のきっかけになる大手の園芸店でバリバリと働いていた。私の姿を見て「あ〜これはもう死ぬかも、、、」と思ったそうだ。それが長い間30年くらいのあいだ渡しが同窓会名簿の中で(不明)から(故人)になってしまった原因らしい。
ある日道で「あの、失礼ですけれど、、吉田さん?」とクラスメートだったKさんが声をかけてくれて「あなた故人になってるわよ!」と教えてくれたのだった。今の名簿をKさんからもらって何人かに電話をしてみたのは5〜6年前のことだった。いたずら電話かと思う人もいた。そりゃそうだ、私が死んだらしいと聞いて泣いたのよ!と言う人もいて、もちろんそれから数人の人たちに会って、いまでは時々コンサートに来てくれる友達もあった。
なかなか時間が合わずに行けなかったクラス会の幹事をしていた元気なグループが、11日のコンサートにやってきてくれて、「あなた来週のクラス会で唄いなさいよね!」と言うので、強行スケジュールだったけれど、ほんの1時間ほど出席して15人ほどが昼間から無礼講でまだお元気な当時の国語の先生を囲んで賑やかに食事をしているところで1っ曲唄った。今年90歳という先生から「とにかく体を大切にね、長生きして頂戴ね」。。。そりゃそうだ、死んだはずの人間だもの。。。
大急ぎでホテルに戻り、トナカイくんがビートルで迎えに来てくれて、レイチェルさんの荷物を積み込み、成田まで。
10日間の日本の旅が終わる。
トンネルのない道を選んでの帰り道はとっても早かった。私達はあまり会話もしないで静かに外を眺めながら、時々一緒に笑った事件や一緒に食べた食事のことや、ポツリポツリと話したが、あっというまに成田空港へ着いてしまった。
レイチェルさんはカートに全ての荷物を積み込み、車寄せからは一人で運ぶから、此処でお別れしようと言う。
私もそうなのだが、駅の改札や飛行場の中まで見送られると、その旅が楽しければたのしいほど、その人がダイスキなときほど辛くなる。
泣いてしまいそうになるときもあって、どうもいけない。。。。
「ありがとう」をお互いに言いながらこのときばかりは抱き合って「またすぐに会いましょうね」と言い合ったが、彼女はクルリと重いカートを押しながら
空港のロビーに向かって歩いていった。
私とトナカイくんも振り返らずに車に乗り込んだ。同じだな、見送り見送られる時。
レイチェルさんからメールが来たのは、それから一週間近く経ってからだった。
最高に楽しかったが、ものすごく重い時差ボケと疲れで静かにしていたらしい。
それもとてもよくわかる。さぞかし疲れただろう。。。。
でも、短いメールだったけれど、「日本に行って素晴らしく温かい人達に逢い、そして自分が忘れていたRACHEL FAROを思い出すことが出来たことが一番ありがたかった」とあった。
彼女も随分と長い間ツアーまでして唄ってはいなかったし、プロデューサーという仕事に夢中になっていたから、この日本という場所で待っていた人達や初めて聴いてくれた人達から沢山のことを気づき、自分が唄うということをあらためて考えたのかもしれない。
私にとってのこの10日間は、あまりにもめまぐるしく過ぎていったけれど、
常日頃のツアーとはまったく違うものだったし、数え切れない人達の支えがどれほど見に沁みて有難かったか〜どれもこれもアタフタとしながらでも無事故で終わったことに感謝しかない。
しかし、私には時差はないけれどやっぱり体は疲れていて、そして大変大きな課題も沢山もらって、10月の半分が終わった。
「アリガトウ」は言うはやさしいけれど、いただいたものに応えることでしかないのだから。
レイチェルさんがホテルを出るまで小日向さんと少しビジネストークをしたいと言っていたのでお願いして、銀座の中華料理店のクラス会へ。
私は女子高に通っていたのだが、3年生の半分はまともに学校に行っていなかった。それはちょうどピピ&コットというバンドがエレックレコードからデビューしたときで、学校はよくぞ私に卒業証書を出しくれたと今になると思う。
それ以後私は学友との交流もなく、アメリカに渡って帰国した時に一番仲のよかったM子と会った。彼女はもう大学も卒業してそれから今も続く仕事のきっかけになる大手の園芸店でバリバリと働いていた。私の姿を見て「あ〜これはもう死ぬかも、、、」と思ったそうだ。それが長い間30年くらいのあいだ渡しが同窓会名簿の中で(不明)から(故人)になってしまった原因らしい。
ある日道で「あの、失礼ですけれど、、吉田さん?」とクラスメートだったKさんが声をかけてくれて「あなた故人になってるわよ!」と教えてくれたのだった。今の名簿をKさんからもらって何人かに電話をしてみたのは5〜6年前のことだった。いたずら電話かと思う人もいた。そりゃそうだ、私が死んだらしいと聞いて泣いたのよ!と言う人もいて、もちろんそれから数人の人たちに会って、いまでは時々コンサートに来てくれる友達もあった。
なかなか時間が合わずに行けなかったクラス会の幹事をしていた元気なグループが、11日のコンサートにやってきてくれて、「あなた来週のクラス会で唄いなさいよね!」と言うので、強行スケジュールだったけれど、ほんの1時間ほど出席して15人ほどが昼間から無礼講でまだお元気な当時の国語の先生を囲んで賑やかに食事をしているところで1っ曲唄った。今年90歳という先生から「とにかく体を大切にね、長生きして頂戴ね」。。。そりゃそうだ、死んだはずの人間だもの。。。
大急ぎでホテルに戻り、トナカイくんがビートルで迎えに来てくれて、レイチェルさんの荷物を積み込み、成田まで。
10日間の日本の旅が終わる。
トンネルのない道を選んでの帰り道はとっても早かった。私達はあまり会話もしないで静かに外を眺めながら、時々一緒に笑った事件や一緒に食べた食事のことや、ポツリポツリと話したが、あっというまに成田空港へ着いてしまった。
レイチェルさんはカートに全ての荷物を積み込み、車寄せからは一人で運ぶから、此処でお別れしようと言う。
私もそうなのだが、駅の改札や飛行場の中まで見送られると、その旅が楽しければたのしいほど、その人がダイスキなときほど辛くなる。
泣いてしまいそうになるときもあって、どうもいけない。。。。
「ありがとう」をお互いに言いながらこのときばかりは抱き合って「またすぐに会いましょうね」と言い合ったが、彼女はクルリと重いカートを押しながら
空港のロビーに向かって歩いていった。
私とトナカイくんも振り返らずに車に乗り込んだ。同じだな、見送り見送られる時。
レイチェルさんからメールが来たのは、それから一週間近く経ってからだった。
最高に楽しかったが、ものすごく重い時差ボケと疲れで静かにしていたらしい。
それもとてもよくわかる。さぞかし疲れただろう。。。。
でも、短いメールだったけれど、「日本に行って素晴らしく温かい人達に逢い、そして自分が忘れていたRACHEL FAROを思い出すことが出来たことが一番ありがたかった」とあった。
彼女も随分と長い間ツアーまでして唄ってはいなかったし、プロデューサーという仕事に夢中になっていたから、この日本という場所で待っていた人達や初めて聴いてくれた人達から沢山のことを気づき、自分が唄うということをあらためて考えたのかもしれない。
私にとってのこの10日間は、あまりにもめまぐるしく過ぎていったけれど、
常日頃のツアーとはまったく違うものだったし、数え切れない人達の支えがどれほど見に沁みて有難かったか〜どれもこれもアタフタとしながらでも無事故で終わったことに感謝しかない。
しかし、私には時差はないけれどやっぱり体は疲れていて、そして大変大きな課題も沢山もらって、10月の半分が終わった。
「アリガトウ」は言うはやさしいけれど、いただいたものに応えることでしかないのだから。
2009年10月12日から
10月11日の夜に翌日からの旅の為に持ちきれない荷物や楽器の一部を
小日向さんの車に積んでもらって、翌12日、レイチェルさんと私はお互いに大事なギターとレイチェルさんの子供が一人は入ってしまうような大きなトランク(私たちはこのケースを Sammy−sanUと呼ぶことにした)それは今回の旅でレイチェルさんと同行するかもしれなかったパーッカショニストのサミー・フィグエロアさんの持ち物であることと(パーカッションの人らしい大きなケース)彼が最後まで日本に来たがっていたから。新宿までタクシー、そして小田急ロマンスカーで小田原まで。レイチェルさんはこのロマンスカーというネーミングにかなりハマッていたけれど、問題はあのトンネル回避だ。しかし必ずトンネルはあったけれど、なんでも早い速度で走りぬけるのなら大丈夫らしくIpodのイヤホンから爆音が彼女の耳から漏れていた。
小田原にはこの夜唄わせてもらう鴨宮の「ジーズキャフェ」のオーナーのジョージさんとトナカイくんこと小島さんが2台の車で迎えに来てくれていた。
小田原の海を少し眺めて、レイチェルさんはホテルへ。
このツアーは東京を含めて4箇所。初日とはうって変わってライヴハウス。
ツアーを組む時にも随分考えた。ともあれジーズキャフェの皆さんが快く胸を貸してくださった。京都も神戸もヒトハダ・フタハダ脱いでくださった沢山の人達のおかげで道ができた。
あやさんという若い女性が通訳をしてくれるようにと取り計らってくださっていた。彼女はレイチェルさんのCDを聴いて用意していてくれた。
本番前もあやさんは緊張していて、それでも一生懸命に唄の意味などを説明してくれながらステージが進んだ。
ジーズキャフェならではの賑やかな空気の中で、前日とは違うリラックスしたステージであったし、レイチェルさんのレパートリーも変わっていた。ピアノがないから1部と2部の構成も私と半分ずつにした。1部は私も彼女もソロを多くして、2部は私の間に彼女とのデュエットを入れた。彼女の代表作の
「Refugees」のダブルダルシマも私がコード進行に慣れてきてコーラスが自然に出来た、それからジム・ペッパーの作品「Wititaito」も
急遽唄うことになった。私も好きな唄であるけれど、知っている人は少ないと思ったのでこれは私がお客さんに簡単に説明をした。ステージでのテンポが出てきた日だったと思う。特に曲の内容を説明するのはとても難しい。それでもあやさんに声をかけてくださったジーズのジョージさんの心遣いとあやさんの一生懸命に感謝する。満員の客席から小日向さんがカメラを回してくださっていた。音響席はステージが見えない一番奥なのでオペレーターのあたるクンも苦労したかもしれないが、このお店と集まったお客さんとともに良い瞬間がいくつもつくれたと思う。
スタートは7時からだったけれど、10時近くまでの長いライヴ、立ったままのお客さんには申し訳なかった。それでも皆さん最後までお付き合いいただいた。
終わってからの打ち上げはささやかに、いつも手料理を持ってきてくださる方や、ジョージさんのお父さん(オジィと呼ばせてもらっている)の持ってきてくださったアジのタタキなどとワイン。
私はこの住居兼お店の最上階のロフトで休ませてもらうことに。
トナカイくんがレイチェルさんをホテルへ。
翌朝、ジョージさんが小田原港の市場の食堂に私たちを連れて行ってくれて、
レイチェルさんは海鮮丼に満足したようだった。
ここからの移動が大問題だった。宅配便で送れるものはほんの少しだし、なんといってもサミーサンUを転がしながら中年女性二人が新幹線移動は無理だ。
なんと、トナカイくんが彼の愛車ビートルで運んでくれると言う!小島くんのことをトナカイくんと呼ぶようになったのは、はじめて出会った4年前に彼から「運転をするトナカイみたいな者です、、、」という挨拶から私も遠慮なくトナカイくんと呼ばせてもらっているけれど、京都までの道のりを東名、名神で走り続けるのだ。一足先に彼は車一杯の荷物を積んで出発。
一方新幹線では長いトンネルをレイチェルさんはパソコン仕事に没頭しながら、益々の爆音のイヤホンで耳を塞いでいた。
京都はちょうど秋の行楽シーズンで適当なホテルがなかなかとれなかった。
京都のライヴを受けてくださった佐々木さんもお手上げで、自分達で探すしかなかったので、私の叔母のツテで会員制のホテルを三日間予約することが出来た。しかし部屋に入ったとたんに大騒ぎだった。インターネットが使えないのだ!レイチェルさんはインターネットで毎日の連絡をする。特に電話はネット電話でなくては物凄い値段になってしまう。
どうしようもないときがあるのだ。ホテルを変えるつもりはなかった。だって
これだけ沢山の人たちに苦労してもらったのだもの。
彼女には気持ちを切り替えてもらうことにして、OFFの時間を夕食の後の散歩や、京都の地図で行きたいところを考えてもらって、自由に過ごしてもらうことにした。
スターバックスが此処かしこにあることがわかり、随分嬉しかったようだ。
やっぱりアメリカの匂いとアメリカのコーヒーの味で気分は落ち着くようだ。
14日<水)平日のライヴはお客さんに来てもらうのが大変だったと思うのに
会場のSomethingには50名以上のお客さんがやってきてくださった。
レイチェルさんの友人のエリザベスさんやそのまた友人の皆さんが最前列のテーブルにいてくれて、その中の一人の男性が素晴らしい唄の通訳をしてくださり、私は新しい唄ばかりでなく、河原町の灯りが大きな窓からユラユラと見える開放的なステージでウララスゥエで始まった1部では私の唄を中心に、2部はセッションを中心に、
京都らしいステージが出来上がったと思った。
お客さんは平日なので早く帰る人たちが多かったが、中心者の佐々木さん、渡辺さん(いつもお蕎麦をごちそうさまです)や、遠方から来てくださったお客さんと、お店の隅でお疲れさまをした。佐々木さんにはこの2年くらいの間に御世話になりっぱなしだ。
大阪からやってきてくれたホテルの件の叔母をステージの直前に紹介して(叔母は英文科だ、が、どういうわけかやっぱり知っている人ほど話さないの。。)ホテルのことを叔母が謝ったら、レイチェルさんも全てわかっていて
仲良く微笑みあっていたのが嬉しかった。身内孝行の少しでもと思いながら
この夜も日本土産一式とご祝儀を渡された。
夜、ホテルへの帰り際レイチェルさんは私に「素敵な叔母さんのいるヨシコはシアワセだ」と言ってくれた。しかしインターネット使えなかったから電話代が大変だとも言われた。。。。。
翌日はお休みの日。一日京都で過ごせる日。レイチェルさんは旅の間に何処で買ったのかバックパックを背負って朝から一人で京都を見物していて、私はいつも御世話になっているアコシャンのママに会いに行ったりで夕方まであっというまに時間が過ぎた。三条のスターバックスでレイチェルさんと友人のエリザベスさんと待ち合わせて、食事に行く。先斗町の料理屋さんで、在日の海外の人に日本料理やさんを紹介してもらったのは初めてだけれどもとても美味しくて値段も手ごろだった。
私達が先斗町で食事をしている頃、トナカイくんは一人京都の夜を過ごしていた。
翌日、神戸入り。新神戸の近くのホりディ・インに宿がとれた。これでネット問題は解決だ!
一休みして会場の饂飩やさん「な也」へ。
饂飩屋さんなのに毎月ライヴが行われている。オーナーの岡ちゃんの豪快な巨体がトレードマークみたいになっているけれど、とにかくお店の人たちが働く働く、そして美味しい。
ツアー最後のライヴ。この夜はあかべいこと赤木一孝さんがギターで応援に来てくださり、私の大阪の友達八巻くんもハモニカで参加ということで賑やかなファイナルになる。岡ちゃんがエレキピアノもセッテイングしていてくれて、
リハーサルをたっぷりしたかったのだけれど、かるく合わせてレイチェルさんはホテルにいったん帰る。この送迎もトナカイくんがしてくれた。
な也では出演者に豪華なお饂飩セットが賄われる。あかべいさん、八巻くん、
私で静かに本番前の控え室でズルズルという音が響く。
果たして本番のセッションはどうなるのかしら、、、、、私の唄う時間になってもレイチェルさんは来ない。。。でもここはトナカイくんありがとう、間に合った!Ohlalaを一緒に唄い彼女のソロと道ばたでおぼえた唄で一部終わり。
あかべえさんがしきりにレイチェルギターの絃を心配している。絃の張り方が逆廻りなのと、とても古いから、、、。でもそういう細かいことでないところで彼女はとてもお客さんの事も考えて曲目を咄嗟に決めたりした。
ピアノで唄う曲も自分で弾けるキーと唄えるキーは違うけれど敢えて挑戦するのだ!少し声が苦しくても唄いきる姿勢は私もあかべいさんも「凄いね」と共感してしまう。
「Witchitaito」も一緒に唄った。神戸では音楽詳しい人たちが随分来てくださっていて、レイチェルさんのMCの中で出てくるアーティストの名前などに反応する。 Wichitaitoは前に書いたようにジム・ペッパーというジャズのサックスプレイヤーでもあり作曲もしていた人でもあったのだけれど、バックボーンのほうが一人歩きしているような神話のようなものがある人のようだ。彼はネイティヴアメリカンのカウ族の血をひいていて、お酒、薬に溺れて夭逝したという話。この代表曲もそういうハイなときに創った曲などと言われているけれど、平和を祈る唄だと私は思い続けているし、この曲を知ったのはレイチェルさんのレコードのおかげだった。とても好きなのだ。ステージでレイチェルさんが「この曲はレコードに入れるつもりがなく、自分は娘の子守唄のつもりでうたっていた。プロデューサーのジョン・サイモンが録音するように勧めた」という話をした。そして私のほうを向いて、小声でといってもマイクがあるから聴こえた人には聴こえたから書いてしまうけれど「彼は昔、ボーイフレンドだった」って! そういう気さくな話も飛び出てきて、あかべいさん、八巻くん、それから通訳を少しだけれどしてくれたティム青年も反対に日本語の勉強みたいになってしまったけれどありがとう!
大阪からも応援団の皆さん、京都の佐々木さんも駆けつけてくださり、そして神戸の大好きな人達がお饂飩食べて美味しく飲んで、最後まで楽しんでもらえただろうか?レイチェルさんのCDはこの神戸で残り9枚ということになってしまって本人も驚いていたし、私もほっとした。
お店やステージを片付ける中で、神戸の友達や御世話になっている人たちと一緒にさっぱりとかけ饂飩をすするレイチェルさん。彼女だけが賄いを食べずにいたのだった。
たった4回のステージでもどんどん変わっていく。出来れば、このままもう一回東京でやれたらいいのになぁ、、と思った。ツアーの組み方も、準備の仕方も、全てがお客さんの前で演じる一瞬に繋がる大事な要素だ。これも全て新しいチカラにしよう。
東京に帰って一日休んでこのツアーは終わる。
鴨宮を出発したトナカイくんは神戸のライヴの途中で抜け出して、ひたすら東京に向かって夜走りをはじめていた。
ホリディ・インに帰ってからレイチェルさんに、トナカイくんには私達の個人的な気持ちで謝礼をしたいと言ったらば、彼女もそう考えていて嬉しくなった。
伊丹空港までは、八巻くんが運転をしてくださる。宣伝やお客さん集めに奔走してくれた眞城一家のところに途中挨拶に行く。
羽田に夕方着いたのだけれど、私はバスで新宿まで行きたかった。。。もうお分かりだろうが、トンネルが。。。二人とも疲れていたから、かなりの勢いで言い合いになったが、結局タクシー代をレイチェルさんが少し多めに払う、ということで決着がついた。タクシーの中でポツリと「アリガトウ、ヨシコ。あなた、この一週間で凄く英語が話せるようになったじゃない?素晴らしい!」と言われた。本当にそうおもう、初日にホテルが狭いことで話し合ったときと
さっきタクシー乗るで言い合った時とはまったく別人みたいに喋っていた。
しかし、もっと深い話がしたかったなぁ、、。でも語句は少なくてもずっと一緒に顔を見て話をすれば伝わることが殆どだ。
同じ日本人同士でも、最近は会って話すよりメールや、それよりももっと短いブログやもっと短いつぶやきのようなものでつながりを済ましてしまうことで
便利にはなったけれど、誤解や心ならずも人を傷つけてしまうこともある。
「短いコトバ」は簡単なようで難しいと思う。だから私は、こういう日記は長い文章になってしまう。短いときもあるけれど。。。。。。。。。。。。。。遠い昔、タイコの音で会話したり、のろしの煙や自然界の変化で気づきをした人達がいたのに。
しかし、音楽は伝達するツールにも成りうる。そしてやっぱり「短いコトバ」は難しい。
ともあれ、最初のホテルに帰ってみると、トナカイくんがきちんと荷物をホテルに届けておいてくれていた。さすがに心底疲れたでしょう、自宅で休んで明日は成田まで行ってくれると言う。
この最後の夜は、もと早稲田のジェリージェフのママであった加代子さんが有志を募ってささやかなプライヴェートパーティーをしてくださるということで
高田馬場の小さなスペイン居酒屋さんに集まった。レイチェルさんのファンの方や加代子さんが連絡してきてくれた人、初日に苦労させてしまった晴子さん、大野えりちゃん、それから中川五郎さん、など10人ほどで。特に五郎さんは仕事でライヴにこれなかったので加代子さんと連絡を取って来てもらった。それぞれにお喋りをして、ワインをいただき、でもやっぱりこれだけのメンバー、唄でしょ! というわけで五郎さんの訳したミー&ボビーマギー
を日本語や英語で歌いだし、Wichitaitoももの凄くハモって(えりちゃんの声)、ディランの唄もあって、この夜をそのまま映像にしたいわね、と誰もが思ったとおもうけれど、
そういうものなのだなぁ、、、。ホントに善いものを創るのは瞬間のための長い時間。
良い夜が終わって、私とレイチェルはホテルのとなりのAMPMで夜食を買って
最後のオヤスミナサイ。
小日向さんの車に積んでもらって、翌12日、レイチェルさんと私はお互いに大事なギターとレイチェルさんの子供が一人は入ってしまうような大きなトランク(私たちはこのケースを Sammy−sanUと呼ぶことにした)それは今回の旅でレイチェルさんと同行するかもしれなかったパーッカショニストのサミー・フィグエロアさんの持ち物であることと(パーカッションの人らしい大きなケース)彼が最後まで日本に来たがっていたから。新宿までタクシー、そして小田急ロマンスカーで小田原まで。レイチェルさんはこのロマンスカーというネーミングにかなりハマッていたけれど、問題はあのトンネル回避だ。しかし必ずトンネルはあったけれど、なんでも早い速度で走りぬけるのなら大丈夫らしくIpodのイヤホンから爆音が彼女の耳から漏れていた。
小田原にはこの夜唄わせてもらう鴨宮の「ジーズキャフェ」のオーナーのジョージさんとトナカイくんこと小島さんが2台の車で迎えに来てくれていた。
小田原の海を少し眺めて、レイチェルさんはホテルへ。
このツアーは東京を含めて4箇所。初日とはうって変わってライヴハウス。
ツアーを組む時にも随分考えた。ともあれジーズキャフェの皆さんが快く胸を貸してくださった。京都も神戸もヒトハダ・フタハダ脱いでくださった沢山の人達のおかげで道ができた。
あやさんという若い女性が通訳をしてくれるようにと取り計らってくださっていた。彼女はレイチェルさんのCDを聴いて用意していてくれた。
本番前もあやさんは緊張していて、それでも一生懸命に唄の意味などを説明してくれながらステージが進んだ。
ジーズキャフェならではの賑やかな空気の中で、前日とは違うリラックスしたステージであったし、レイチェルさんのレパートリーも変わっていた。ピアノがないから1部と2部の構成も私と半分ずつにした。1部は私も彼女もソロを多くして、2部は私の間に彼女とのデュエットを入れた。彼女の代表作の
「Refugees」のダブルダルシマも私がコード進行に慣れてきてコーラスが自然に出来た、それからジム・ペッパーの作品「Wititaito」も
急遽唄うことになった。私も好きな唄であるけれど、知っている人は少ないと思ったのでこれは私がお客さんに簡単に説明をした。ステージでのテンポが出てきた日だったと思う。特に曲の内容を説明するのはとても難しい。それでもあやさんに声をかけてくださったジーズのジョージさんの心遣いとあやさんの一生懸命に感謝する。満員の客席から小日向さんがカメラを回してくださっていた。音響席はステージが見えない一番奥なのでオペレーターのあたるクンも苦労したかもしれないが、このお店と集まったお客さんとともに良い瞬間がいくつもつくれたと思う。
スタートは7時からだったけれど、10時近くまでの長いライヴ、立ったままのお客さんには申し訳なかった。それでも皆さん最後までお付き合いいただいた。
終わってからの打ち上げはささやかに、いつも手料理を持ってきてくださる方や、ジョージさんのお父さん(オジィと呼ばせてもらっている)の持ってきてくださったアジのタタキなどとワイン。
私はこの住居兼お店の最上階のロフトで休ませてもらうことに。
トナカイくんがレイチェルさんをホテルへ。
翌朝、ジョージさんが小田原港の市場の食堂に私たちを連れて行ってくれて、
レイチェルさんは海鮮丼に満足したようだった。
ここからの移動が大問題だった。宅配便で送れるものはほんの少しだし、なんといってもサミーサンUを転がしながら中年女性二人が新幹線移動は無理だ。
なんと、トナカイくんが彼の愛車ビートルで運んでくれると言う!小島くんのことをトナカイくんと呼ぶようになったのは、はじめて出会った4年前に彼から「運転をするトナカイみたいな者です、、、」という挨拶から私も遠慮なくトナカイくんと呼ばせてもらっているけれど、京都までの道のりを東名、名神で走り続けるのだ。一足先に彼は車一杯の荷物を積んで出発。
一方新幹線では長いトンネルをレイチェルさんはパソコン仕事に没頭しながら、益々の爆音のイヤホンで耳を塞いでいた。
京都はちょうど秋の行楽シーズンで適当なホテルがなかなかとれなかった。
京都のライヴを受けてくださった佐々木さんもお手上げで、自分達で探すしかなかったので、私の叔母のツテで会員制のホテルを三日間予約することが出来た。しかし部屋に入ったとたんに大騒ぎだった。インターネットが使えないのだ!レイチェルさんはインターネットで毎日の連絡をする。特に電話はネット電話でなくては物凄い値段になってしまう。
どうしようもないときがあるのだ。ホテルを変えるつもりはなかった。だって
これだけ沢山の人たちに苦労してもらったのだもの。
彼女には気持ちを切り替えてもらうことにして、OFFの時間を夕食の後の散歩や、京都の地図で行きたいところを考えてもらって、自由に過ごしてもらうことにした。
スターバックスが此処かしこにあることがわかり、随分嬉しかったようだ。
やっぱりアメリカの匂いとアメリカのコーヒーの味で気分は落ち着くようだ。
14日<水)平日のライヴはお客さんに来てもらうのが大変だったと思うのに
会場のSomethingには50名以上のお客さんがやってきてくださった。
レイチェルさんの友人のエリザベスさんやそのまた友人の皆さんが最前列のテーブルにいてくれて、その中の一人の男性が素晴らしい唄の通訳をしてくださり、私は新しい唄ばかりでなく、河原町の灯りが大きな窓からユラユラと見える開放的なステージでウララスゥエで始まった1部では私の唄を中心に、2部はセッションを中心に、
京都らしいステージが出来上がったと思った。
お客さんは平日なので早く帰る人たちが多かったが、中心者の佐々木さん、渡辺さん(いつもお蕎麦をごちそうさまです)や、遠方から来てくださったお客さんと、お店の隅でお疲れさまをした。佐々木さんにはこの2年くらいの間に御世話になりっぱなしだ。
大阪からやってきてくれたホテルの件の叔母をステージの直前に紹介して(叔母は英文科だ、が、どういうわけかやっぱり知っている人ほど話さないの。。)ホテルのことを叔母が謝ったら、レイチェルさんも全てわかっていて
仲良く微笑みあっていたのが嬉しかった。身内孝行の少しでもと思いながら
この夜も日本土産一式とご祝儀を渡された。
夜、ホテルへの帰り際レイチェルさんは私に「素敵な叔母さんのいるヨシコはシアワセだ」と言ってくれた。しかしインターネット使えなかったから電話代が大変だとも言われた。。。。。
翌日はお休みの日。一日京都で過ごせる日。レイチェルさんは旅の間に何処で買ったのかバックパックを背負って朝から一人で京都を見物していて、私はいつも御世話になっているアコシャンのママに会いに行ったりで夕方まであっというまに時間が過ぎた。三条のスターバックスでレイチェルさんと友人のエリザベスさんと待ち合わせて、食事に行く。先斗町の料理屋さんで、在日の海外の人に日本料理やさんを紹介してもらったのは初めてだけれどもとても美味しくて値段も手ごろだった。
私達が先斗町で食事をしている頃、トナカイくんは一人京都の夜を過ごしていた。
翌日、神戸入り。新神戸の近くのホりディ・インに宿がとれた。これでネット問題は解決だ!
一休みして会場の饂飩やさん「な也」へ。
饂飩屋さんなのに毎月ライヴが行われている。オーナーの岡ちゃんの豪快な巨体がトレードマークみたいになっているけれど、とにかくお店の人たちが働く働く、そして美味しい。
ツアー最後のライヴ。この夜はあかべいこと赤木一孝さんがギターで応援に来てくださり、私の大阪の友達八巻くんもハモニカで参加ということで賑やかなファイナルになる。岡ちゃんがエレキピアノもセッテイングしていてくれて、
リハーサルをたっぷりしたかったのだけれど、かるく合わせてレイチェルさんはホテルにいったん帰る。この送迎もトナカイくんがしてくれた。
な也では出演者に豪華なお饂飩セットが賄われる。あかべいさん、八巻くん、
私で静かに本番前の控え室でズルズルという音が響く。
果たして本番のセッションはどうなるのかしら、、、、、私の唄う時間になってもレイチェルさんは来ない。。。でもここはトナカイくんありがとう、間に合った!Ohlalaを一緒に唄い彼女のソロと道ばたでおぼえた唄で一部終わり。
あかべえさんがしきりにレイチェルギターの絃を心配している。絃の張り方が逆廻りなのと、とても古いから、、、。でもそういう細かいことでないところで彼女はとてもお客さんの事も考えて曲目を咄嗟に決めたりした。
ピアノで唄う曲も自分で弾けるキーと唄えるキーは違うけれど敢えて挑戦するのだ!少し声が苦しくても唄いきる姿勢は私もあかべいさんも「凄いね」と共感してしまう。
「Witchitaito」も一緒に唄った。神戸では音楽詳しい人たちが随分来てくださっていて、レイチェルさんのMCの中で出てくるアーティストの名前などに反応する。 Wichitaitoは前に書いたようにジム・ペッパーというジャズのサックスプレイヤーでもあり作曲もしていた人でもあったのだけれど、バックボーンのほうが一人歩きしているような神話のようなものがある人のようだ。彼はネイティヴアメリカンのカウ族の血をひいていて、お酒、薬に溺れて夭逝したという話。この代表曲もそういうハイなときに創った曲などと言われているけれど、平和を祈る唄だと私は思い続けているし、この曲を知ったのはレイチェルさんのレコードのおかげだった。とても好きなのだ。ステージでレイチェルさんが「この曲はレコードに入れるつもりがなく、自分は娘の子守唄のつもりでうたっていた。プロデューサーのジョン・サイモンが録音するように勧めた」という話をした。そして私のほうを向いて、小声でといってもマイクがあるから聴こえた人には聴こえたから書いてしまうけれど「彼は昔、ボーイフレンドだった」って! そういう気さくな話も飛び出てきて、あかべいさん、八巻くん、それから通訳を少しだけれどしてくれたティム青年も反対に日本語の勉強みたいになってしまったけれどありがとう!
大阪からも応援団の皆さん、京都の佐々木さんも駆けつけてくださり、そして神戸の大好きな人達がお饂飩食べて美味しく飲んで、最後まで楽しんでもらえただろうか?レイチェルさんのCDはこの神戸で残り9枚ということになってしまって本人も驚いていたし、私もほっとした。
お店やステージを片付ける中で、神戸の友達や御世話になっている人たちと一緒にさっぱりとかけ饂飩をすするレイチェルさん。彼女だけが賄いを食べずにいたのだった。
たった4回のステージでもどんどん変わっていく。出来れば、このままもう一回東京でやれたらいいのになぁ、、と思った。ツアーの組み方も、準備の仕方も、全てがお客さんの前で演じる一瞬に繋がる大事な要素だ。これも全て新しいチカラにしよう。
東京に帰って一日休んでこのツアーは終わる。
鴨宮を出発したトナカイくんは神戸のライヴの途中で抜け出して、ひたすら東京に向かって夜走りをはじめていた。
ホリディ・インに帰ってからレイチェルさんに、トナカイくんには私達の個人的な気持ちで謝礼をしたいと言ったらば、彼女もそう考えていて嬉しくなった。
伊丹空港までは、八巻くんが運転をしてくださる。宣伝やお客さん集めに奔走してくれた眞城一家のところに途中挨拶に行く。
羽田に夕方着いたのだけれど、私はバスで新宿まで行きたかった。。。もうお分かりだろうが、トンネルが。。。二人とも疲れていたから、かなりの勢いで言い合いになったが、結局タクシー代をレイチェルさんが少し多めに払う、ということで決着がついた。タクシーの中でポツリと「アリガトウ、ヨシコ。あなた、この一週間で凄く英語が話せるようになったじゃない?素晴らしい!」と言われた。本当にそうおもう、初日にホテルが狭いことで話し合ったときと
さっきタクシー乗るで言い合った時とはまったく別人みたいに喋っていた。
しかし、もっと深い話がしたかったなぁ、、。でも語句は少なくてもずっと一緒に顔を見て話をすれば伝わることが殆どだ。
同じ日本人同士でも、最近は会って話すよりメールや、それよりももっと短いブログやもっと短いつぶやきのようなものでつながりを済ましてしまうことで
便利にはなったけれど、誤解や心ならずも人を傷つけてしまうこともある。
「短いコトバ」は簡単なようで難しいと思う。だから私は、こういう日記は長い文章になってしまう。短いときもあるけれど。。。。。。。。。。。。。。遠い昔、タイコの音で会話したり、のろしの煙や自然界の変化で気づきをした人達がいたのに。
しかし、音楽は伝達するツールにも成りうる。そしてやっぱり「短いコトバ」は難しい。
ともあれ、最初のホテルに帰ってみると、トナカイくんがきちんと荷物をホテルに届けておいてくれていた。さすがに心底疲れたでしょう、自宅で休んで明日は成田まで行ってくれると言う。
この最後の夜は、もと早稲田のジェリージェフのママであった加代子さんが有志を募ってささやかなプライヴェートパーティーをしてくださるということで
高田馬場の小さなスペイン居酒屋さんに集まった。レイチェルさんのファンの方や加代子さんが連絡してきてくれた人、初日に苦労させてしまった晴子さん、大野えりちゃん、それから中川五郎さん、など10人ほどで。特に五郎さんは仕事でライヴにこれなかったので加代子さんと連絡を取って来てもらった。それぞれにお喋りをして、ワインをいただき、でもやっぱりこれだけのメンバー、唄でしょ! というわけで五郎さんの訳したミー&ボビーマギー
を日本語や英語で歌いだし、Wichitaitoももの凄くハモって(えりちゃんの声)、ディランの唄もあって、この夜をそのまま映像にしたいわね、と誰もが思ったとおもうけれど、
そういうものなのだなぁ、、、。ホントに善いものを創るのは瞬間のための長い時間。
良い夜が終わって、私とレイチェルはホテルのとなりのAMPMで夜食を買って
最後のオヤスミナサイ。