2010年03月04日

2009年11月の九州

この数年毎年同じ頃に九州の短い旅をさせてもらっている。
熊本の宇土という町の「カフェレストラン・ポケット」に連れて行ってもらったのはやはり熊本で古くから沢山のアーティストを招いて自宅を開放して<自宅といっても1階は完全にライヴができる広間にしている)「紙ひこうき」という名で活動をされている本田さんとそのパートナーのふうさんだ。紙ひこうきを紹介してくれたのは、今、青森の病院で闘病している高坂一潮さんだった。一潮さんはこの熊本の畑の広がる中にポツンとある「紙ひこうき」にシバさんと行ったそうで、そうやって歴史を聞いてみればそれはもう沢山の人達につながっていくのだけれど、熊本には音楽を愛していてしっかりと活動している人たちが凄く多いことをはじめて「紙ひこうき」に行って唄ったときに知った。なんといってもギターの達者な人達がそれぞれに素晴らしい演奏をしているので、私が唄った後の打ち上げでノックアウト状態だった。そういう人たちが私のステージを聴いていてくださったのかと思ったら申し訳ないくらいだった。沢山のアーティストから慕われていたふうさんは着物の生地で素晴らしい服を創作される。そのふうさんの体調が良くないときからしばらく「紙ふうせん」には行けずに、その少し前に本田さんが音響機材を積んで私のツアーを組んでくださり宇土の「ポケット」に連れてきてくださったのだった。
今はふうさんもお元気になっていられるようで、近いのに今回は顔を見に行けなかったのが残念だった。週末を利用しての三日間の旅で、ただ唄うだけで移動していくのが悔しいときがたくさんある。どうしても逢っておきたい人や、行っておきたい場所もある。時間があっても心に余裕がないとこういうふうになる。もちろん移動に時間がかかるから、もう少しゆっくりとしたスケジュールをつくることもこれから絶対に必要だ。こんなに沢山の人たちと出会っているのだから、その場限りでは、これからの時間が薄っぺらくなってしまう。
この次はライヴのためだけでなく熊本の大自然の中をバスに乗って、そして歩いてまたあの畑の真ん中の小さな音楽の館に行きたい。

今回は、カフェレスト・ポケットが初日だ。オーナーの門内夫妻は若々しくて働き者。ご主人は昼間は会社務めをしてその間は奥さんの里美さんが切り盛りをしている。今は息子さんも手伝っていて、界隈のお客さんや、仕事で通りがかったときに必ず寄るお客さんで朝早くから、そしてランチ、夜は少しお酒も飲めるようになっていて憩いの場所という空気が満ちている。
ポケットのライヴには豪華なお弁当やなどの食事のメニューがついている。
お客さんはそれを食べてゆっくりしてからライヴを楽しむ。リハーサルのあいだに予約をしているお客さんの名前が紙に書かれてそれぞれのテーブルに置いてあって、こういう心遣いは招くほうも招かれるほうも両方が気分が良いものだ。お客さんを集めてくださるその努力に応える気持ちが高まっていく。
少し日常とは違う時間を!という心だ!
この日もテーブルについたお客さんがそれぞれにゆっくりと食事をしたりお酒を飲んだりしている間にステージが始まった。細波(さいは)さんという男性がしばらく唄われて、そのあと私もゆっくりと唄った。10月11月は唄う曲順はあまり変えていなかった。いつも聴いてくださる方もあるが、はじめてのお客さんもあるのだから、曲は変えていなくても、話すことは変わる。いわゆるネタというのはないこともないけれど、それより最近の出来事やとても身近なことや今感じていることを話していることが多い。もちろんその土地で思ったことや、思い出話もある。20曲くらい唄うつもりでも、気がつくと15曲くらいで2時間近くになってしまったり、やはりライヴは毎回違うものだ。
宇土には、昔エレックレコードの時代に会っていたMさんがいる。彼女がご主人の故郷に家族で引っ越してきていてメールを送ってきてくれて、35年近くの歳月がたった3年前にこのポケットで再会した。ひとめで当時の面影がみえたときは嬉しかった。
この夜もご主人と一緒に徒歩で随分時間をかけてやってきてくれた。
打ち上げの席で彼女とゆっくりするのは今回が初めてのような気がする。共通の話題は当時のエレックのこと、佐藤公彦さん(ケメ)が唄うことを本格的に再開してお互いに凄く嬉しいことなどを話して夜が更けた。
やっぱり、今度は熊本にもう少しゆっくりしたい。。。翌日は早朝に高速バスで九州の阿蘇を越えて宮崎まで行くのだ。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月25日

それから

早起きの「ふう」には美味しいコーヒーの香り。
朝から店の前の道には沢山の出店。この日は犬山の手作り市の日で、地元や
いろいろなところから手作りの物を通りの両側に露天で並べて寒いけれど冬の日差しが時々射すお祭りが始まっていて、私も朝のコーヒーを頂いてから通りで物色。その後どうしても髪の毛をシャンプーしたくて、まりこさんに駅前の美容院を教えてもらって出かける。
旅のときに私が困ることのひとつに、この長く伸ばした髪のこと。狭いホテルのお風呂では温まりながらシャンプーが出来ない。バスタブに浸かりながらだとお風呂のお湯がシャンプー風呂になってしまって気持ち悪い。それとドライヤーが小さいと髪を焦がしてしまうことがあって、少々贅沢なのだけれど、時々知らない土地の美容院に行くことがある。犬山の駅前にある紹介された美容室はとってもしっかりした感じのオーナーの女性がテキパキと若いスタッフに指示をだしていてとても繁盛していた。私の担当になったのは20代前半の青年で、シャンプー台で話をしていたら、出身が沖縄で那覇の国際通りの近くでお父さんお母さんが小料理屋をやっているという、、、。ふ〜ん、国際通りは観光客値段の高い店が多いから私はあまりよく知らないけれど、「小桜」という小さなお店を友人から紹介されて何度か行ったのだけれど、ライヴが終わるのが遅い沖縄ではなかなか営業時間にいけないのよね。。。と話したら、
「えっ!僕、その小桜の息子です」というではないか!!!なんで、那覇から犬山に?聞けばこのサロンのオーナーが那覇の美容学校にスカウトに来たのだそうだ。面白い縁だなぁ、、。「今夜、ふうさんでライヴがあるけれど時間的に無理よね?」と聞いたら行けるかも知れないと言うので、無理しないでね、来月沖縄に行くからお店に必ず行くね〜ということで、シャンプーでスッキリして「ふう」に戻るとおでん目当てのお客さんでお店はてんてこ舞いで、私も隅っこでおでんを頂き、奥の部屋で御昼寝。ふすま一枚でお店なので、人の話し声を聴きながらウトウトするのも気持ちよい。。。ごめんなさい、みんな働いているのに。。。
「ふう」では今回はマイクを使わずに唄うことにした。充分聴こえるはずだし
私はこのお店の響きも好きだから。それにちょうどお祭りのイベントでPA機材が出払っていたから忙しくならずに済んだ。おでんは完売だったそうで、よかったよかった。

ライヴに来てくださったのは、なんと全員男性!凄いぞ!女性は私とまりこさんだけ!みなさんありがとうございました。
いつも来てくださる方もあったけれど、初めての方もあり、静かな曲が多かった。小川さんのリクエストは「つらいときはもうごめんだ」と「道ばたでおぼえた唄」小川さんはトラッドが大好き。
半分くらい唄ったころに息を切らして入ってきたのは、シャンプーしてくれた青年!急に平均年齢が下った!サロンのオーナーからのお土産まで持ってきてくれた。
二年ぶりの「ふう」(小川さんと二年に一度くらいにしようねと決めている)で、マイクなしで丁寧に唄わせてもらえて本当に楽しかった。
昼間の戦争状態でさぞかし疲れているだろうまりこさんが、打ち上げの用意をしてくださり、半分以上の人が残って美味しい肴と話題で静かに盛り上がった。シャンプー青年もオジサンオバサンの中に自然に入って楽しくいてくれて
良いなぁと思った。今時の、、、なんていうオジサンオバサンはこの夜この
「ふう」にはいない。みんな未だに青年ばかり。
宴も早々にした。そして大好きな大きな小川家の大きなお風呂を使わせてもらって、翌朝早くに、京都行きの高速バスの乗り場まで小川さんに送っていただき、愛知県二日間の旅は、質素で贅沢な時間だった。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月24日

伊保木フォークジャンボリーで始まった2009年11月

11月1日、前日の快晴からうって変わって雨が降り出して、会場は野外だから、客席にシートでテントを張ったり、機材を守ったり、力仕事を皆さん総出でやっているところに私は宿から到着。お客さんもどんどんやって来る。
遠いところからも集まる。岡山、広島などで会った人たちも、そして中津川で会った人達や、もうこうなると顔と名前などはわからないけれど、今まで各地のフォークジャンボリーなどで唄わせてもらったおかげで「こんにちわ!」が言える。雨はどんどん降ってくるけれど、フォークジャンボリーは決行!
沢山の表現者、おのおの15分から長くても25分くらい。笠木透と雑花塾の皆さん、メンバーの山本幹子さんの唄は心の奥に届く響きがあって個人的に好きだし、雑花塾のお一人お一人がそれぞれ笠木さんの創った言葉に曲をつけているので、それぞれの想いが唄となっているところが、その名も雑花のようで
ちからがあるなぁ、、と思う。飛び入りというかフーテナニーというかたちで一曲二曲ほど唄う人達も素晴らしくて、瀬戸内海田ノ浦原発反対の運動をしている若い人たちも参加していて、彼等は実際に祝島をシーカヤックで毎日監視をして反対運動を続けているそうで、私は彼らの話をこの日聞くまで、この問題を詳しく知らなかったから、それは生々しいメッセージだった。私が唄った後にその中の一人のノブくんという若者から握手をされた。雨の中のお祭りで知ることもある、こんなに情報が発達しているのに、この雨の瀬戸内の丘の上で。
マウンテンゴリラのみなさんは九州から来ていたし、私が去年はじめてこの場で衝撃を受けたバンドビッグストーンは屋久島から家族も連れての参加だ。
ビッグストーンの「OH!ガンジー」は去年はじめて聴いて芝生で寝転んでいた私をすっ飛ばしてくれた唄だった。
赤木一孝さん(あかべい)の出番の頃は雨が本降りになってきたけれど、お客さんは傘やカッパで装備してしっかりと聴いている。私もコートのフードをかぶって木陰などで観客になった。中川五郎さんも新しい唄を創って参加だ!五郎さんは本当に唄を次々につくってそれを心身ともに極限状態までもっていって唄う。長い長い唄なのに歌詞など一切見ないで唄う!素晴らしいといつも思うのだ、打ち上げ以外は。。。それはお互い様でお酒も敵わない素晴らしき肝臓!。。。尊敬するフォークシンガー。
五郎さんのあとに私が唄う。その間20分くらい雨が弱くなって明るくなった。なんだかそれがとても嬉しかった。気持ちが天に届いたみたいだったけれど、またすぐに雨は降ってきた。2年続けてこのステージに立たせてもらって
いろいろな想いが溢れてきた。一言では言えない。ただ、私がこうしてみんなそれぞれの強いメッセージを抱いて集まってくるフォークジャンボリーに参加させてもらっていることはとても大事なことだったし、勇気のいる場面もいくつかあった。「根っこのない漂うような人間になったらいけないよ」と何処からか聴こえてくる場所なのだ。
高石ともやさんのステージが終わり、その後、なんと村崎太郎さんと次郎くんが登場した。次郎くんは日本猿、そうあの太郎次郎のコンビ!
なんでこの場所に?と思ったのはその本番のステージでだけで、その後太郎さんは次郎君とは別にみんなと唄ったりしていて、これはきっと深いつながりがあるのだなぁと思った。その後打ち上げで偶然隣同士になった太郎さんからご自身のバックボーンを話してもらった。ここで会わなければ多分長い間テレビやイベントで頑張っている芸能人としての太郎さんとお猿の次郎くんとしか知らなかったと思う。
本も出版されていて、映像も撮っているようで、私はまだ本は読ませてもらっていないのでこの話はここまでにしておくし、私よりももっと詳しい人は沢山いるだろうから。
あたりが暗くなって、照明がともされて、表現者達はフィナーレでステージに、しかしこの伊保木フォークジャンボリーでは全ての人が参加者である、という気持ちになれることだ。
私は、中心者の方々が、もっと若い人達や、いろいろなジャンルの表現者の人達ともっともっと交流をしていったらいいなぁ、、とおもった。
時間はすぐに過ぎて、「世間」は無責任に変わっていってしまうから!
私もまたこういう場所で表現できるように、進んで生きたいとおもった。

雨があがったころに、上田さんの広いリビングに溢れる老若男女!
そこからは、祭りのなごりの夜。そして大食大酒漢の胃袋を支えてくださった
お母さん隊に心から感謝したくて、最後に上田さんの奥さんにリクエストをして、唄っていただいた。可憐な唄声、本当にお疲れさまでした!

翌日はそれぞれに伊保木から広島へ。久々に御世話になる楽座。
楽座は広島の繁華街のビルの地下にあるのだけれど、オーナーの石澤さんはお店をはじめるまでは広島を中心にイベントを主催したり請負をする大きな会社にいたのだが、奥さんと二人三脚できちんとしたライヴハウスをして、自分のラジオ番組やギター教室もやっていて、2006年には、斉藤哲夫さんが呼びかけてはじまった「フォークジャンボリー」を広島でも赤字覚悟で受けてくださった。
ホテルでやすみ、リハーサル、石澤さんは私の楽器も声もちゃんとわかっているから、本当に気持ちの良いリハーサルで、すべてお任せしている。
楽屋で一人になる時間もあり、それは長年のコンサート運営をした人のプロの
心配り。そこに奥さんの柔らかな(こういう仕事をするとはおもってもいなかったそうだ)笑顔がちょうど良い空気をつくっている。
連休の中日であったけれど、皆さん唄うにつれて盛り上がり、音楽好きの人達が多いから沢山唄おうと思ったけれど、沢山お喋りもしていた。去年はちょうど8月5日にライヴをして、翌日私は平和式典に言ったことなどを話した。
店のカウンターの横には石澤さんとジャクソン・ブラウンの2ショットの大きなスティル写真があって、それだけでもどういう人たちが集まる場所かわかる。お客さんが帰ってから、近くのお店で軽く食事をいただく。前に始めてのときだったと思うが、お好み焼きをお好み村というビル全体がお好みやさんばかりというところで、夜中にガッツリと本場広島をいただいたときは、その量に気持ちもおなかもビックリしてしまった。私がはじめての旅できっと歓ぶと思って連れて行ってくださった。そんな話やら、なんだか最近亡くなった人の話とか、でも今度もジャクソン・ブラウンは行く!!!とかそういう話に、奥さんはニコニコと頷いていた。
東京羽田に翌日着いて、ライヴは3回なのにやけに長い旅をしていたような気がした。すっかり寒くなっていたのだ。
灯油を買わないと大変だ!車を手放してから一番困るのがこの灯油確保だ。
家の前まで売りに来る灯油やさんがいるのだが、旅に出ているとタイミングが合わなくて、近所の友達の車で灯油プラスランチという久々のご近所ライフをした。主婦友はランチにも詳しい。こういうことでもしないと私は普段の食生活と精神状態が危険になる。なんでもないことなのだが、同世代の女同士で仕事とは無関係な、でも前向きなお喋りは非常に大切だし、食べたものが全て栄養になるような気もする。昼間に飲むノンアルコールビールって以外に美味しい。
11月7日は亀有Kidboxでギタリストの萩原信義さんとのライヴ。亀有というのは遠い。でも乗り換えが少ないので、私でもきちんと行ける。ノブさんとはいつも一緒にと思いながら、年に数回も出来ないでいた。私のダイスキなギタリスト。ノブさんそのもの!というギターの音色と引っ張りかたは、ワン&オンリーだとおもう。それからノブさんは人のことを褒める。ライヴに招待したりすると、サポートミュージッシャンを「いいねいいねあの人いいね」とはしゃぐように聴いている。人のことを褒めるひとは好きだ。お世辞ではなく。
そしてヤキモチはいやだ。
もっとリハーサルをしたいのだが、時間が合わなくてこの日もお互いに譜面を持ってきて会わせてみたのだが、本番ではお互いに曲順も無視してやりたい曲を続けた。オーナーの鷲見さんが、ダルシマもギターも用意してあるから手ぶらできてね、と言われたけれど、やっぱりギターは自分の弾きなれたものがいい。ただ、ダルシマは1本置いていてくださると本当に助かる。どれだけ体も気分も軽いか!!鷲見さんのダルシマは小ぶりだけれど、素朴な音でお店のスペースにちょうど良い音。私以外でも弾く人が沢山出来て音が鳴るようになるかもしれない。
ノブさんは彼が高校生の時に淺川マキさんのところに行って、その場でギター弾かせてくださいと強引にメンバーになった情熱少年だった。
初期のマキさんのライヴで爆発しているノブさんの音が沢山ある。今のノブさんのギターの引っ張り方、間のとりかたはマキさんの唄から来るものもあると思う。そういうギタリストと大好きなマキさんの「少年」を唄わせてもらった。途中でノブさんも唄う。「ホントに泣きたいくらい」だった。

終わってから、オーナーが用意してくれたおでんなどをいただきながら、今度はもっとリハーサルして、あとマキさんの唄も少しうたいたいなぁ、、、などとゆっくり話していたら、もう終電の時間。遠いなぁ亀有。。。。。私の家が遠いのだけれど。。。。

14日は名古屋の「パントマイム」へ。一年に一度か二年に一度か御世話になる。
ここは徳川美術館の近く、大きな交差点の角にあるから目だって良いはずなのだが、その佇まいがなんだか、目立たないように目立たないようにしているみたいに思うのは私だけかな、、。
マスターは真野さん、そしてママというよりパートナーの直美ちゃん。
中ではいつも面白いアーティストの個展や展示、小物なども販売したり、いらなくなった衣類をフリーボックスに入れてある。
そして、お料理も飲み物もとても美味しい。
この日もそのフリーボックスから直美ちゃんが素敵なシルクの巻きスカートを私に渡してくれた!とても良いもので、すぐにでも着たくなった。
ライヴメニューというのをあらかじめ作ってあって、それも季節感があって美味しいのだ。喫茶店だから基本的にはあまり沢山お酒は売らない。
音響は小さなアンプにマイクとギターを繋いで、でもそれがこのお店にはよく響くのが不思議。静かに静かに唄を聴いてくださった。
ライヴメニューで残ったお料理などを美味しく取り分けていただいて、早めの打ち上げ。朝が早い喫茶店だから夜も早い。
この夜は、翌日の犬山の「ふう」のオーナー小川さんが車で犬山の自宅まで連れて行ってくださり、お風呂をいただきおやすみなさい。
犬山は町の「手作り市」の前日で、静かなのにどこか祭りの前の夜の気配がした。「ふう」では大量のおでんを売るそうで、奥さんのまりこさんがおでんの仕込みを深夜までやっていた。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月23日

武生から美浜 そして西へ

ヒサさんは絵葉書を主につくって売っている。しかし素晴らしい絵描きさんであるし、詩人でもある。ふるさとは小浜ということで今回も小浜でコンサートをしたいと言ってくれていたのだけれど、叶わずに、ちょうど彼女の作品展をしている美浜の「森のめぐみ」という木作り二階建てのカフェで唄わせて貰った。初めての場所だったし、お客さんはヒサさんの絵が好きな人や、お店のお客さんが美味しいケーキやコーヒーと一緒に私の唄をはじめて聴く人が殆ど。
曲目は前日とは少し変えてみた。それでも20曲。早めに始まったけれど外は肌寒く秋は深くなっていて、「森のめぐみ」の庭は少し湿っていて良い匂いがした。
車で武生まで帰る道すがら「何食べよう。。。」と、そらちゃんが切り出した。
私が武生で一緒に食べていなくて、そらちゃんがダイスキでお勧めのオムライスがあるのだが、日曜日の夜、ギリギリでその食堂に到着。オススメ通りにサッパリといていて美味しかった。ラクガキ屋で唄うアーティストはみんな好きな食堂らしい。食堂なんだけれどちいさなお座敷があってそれもとても狭いからみんなで体を寄せ合って食べるのがとっても楽しいのだ。

短い北陸福井の旅、何処にも寄らずに週末を過ごして、好きな人達と静かに過ごせて心が解けてきた。
小さい友達も増えた。

2泊してホテルをチェックアウトしてから、冷たい雨が降り出したけれど、
そらちゃんが学校に行っている間にもういちどラクガキ屋に行ってそれからヒサさんとお昼を食べた。少しの間だったけれど、お互いに話したかったことをはなした。
武生のホームまで見送ってくれたヒサさんとビニール傘が目に焼きついている。

10月30日は山口湯田温泉の「カフェ・ド・ダダ」店の名前がラクタイムといっていた頃にはじめて降り立った湯田温泉の駅。まったく変わっていないといつも思っていたが、駅前の古い喫茶店がなくなっていたり、中原中也記念館の向かいにあったうどんやさんが引っ越して、中也を知っていたといううどんやのおばあさんはもういない。東京のようにガラガラと様変わりするわけではないのだけれど、やはり変化はある。たった6年くらいのあいだなのに、若林純夫さんが亡くなったし、夫婦デュオのべすぱの二人には可愛い赤ちゃんが生まれているし、名前も変わったダダのオーナー香原さんだけは相変わらずの無口と、時折口から出るのはなんとも香腹さんらしいニヒルとヒューマンが混ざり合った短いセリフ。しかしずいぶん御世話になっているのだ。
そのうちに仲良くしてくれる人たちも増えて、ライヴはそういう仲の良い人達が中心に来てくださる。この夜は吉本あいさんという、とても可憐な歌声の女性が一緒だった。賛美歌のような唄もあったし、アイリッシュを日本語で歌ったりで、彼女のファンの人たちもいらしたし、ダダもいろりお若い人たちも集まる場所になっているのだ。
あいさんと一緒だったから曲数は少し短くしたけれど、10月のステージの曲目は大体新しいアルバムの曲が中心になっていて、ちょっと自分でも変えてみたくなっていた。でも、ツアーの最中に新しいことをするのはなかなか大変なことで、毎日の移動だけで終わってそのまま流されていくと、唄が痩せていくような気になるときがある。それは私が一番いやなことで、きょくのあいだの話も同じだ。しかし、毎回はじめて聞いてくれるお客さんはいるのだから、そのバランスは大切にしたいと思う。
それから、同じ唄でも毎日違うのだ。湯田温泉駅みたいに、気がつかない程度かもしれないけれど。
ともあれ、ダダの夜は吉本あいさんという新しいシンガーにも出会えて、そして待っていてくださる方々もあって、香原さんいつもありがとうございます。
この夜は、小澤由己子さん邸に御世話になる。さすがに夜は冷えて、小澤さんと一緒にスーパーで鍋の材料を買って、私の差し入れのお酒で女二人でゆっくりやりましょう、、、ということに。
小澤邸は広い平屋造りの日本家屋で、長い縁側やアルミサッシではない窓や雨戸、そこ此処に趣味の焼き物や書などがあって、私はとても落ち着いてしまう。しかし一人でこの邸宅を管理するのはさぞかし大変だと思うけれど、お父様からの大事な場所なのだ。
お持たせのお酒に似合うお猪口も自分で選ぶ、お猪口だけの箱があるのだ。
お鍋の用意は由己子さんにまかせてしまって、冷えた体をお風呂で温めた。
山口の内陸は寒いのだ。お風呂を頂くのは本当にありがたい。
女二人鍋、歯にもの着せない由己子さんとは話も弾むがお酒も進む。ちょっと足りないかな〜というところで夜更かしは終わり。
数年前に、由己子さんとあの人間魚雷の島「大津島」に行ったときに彼女がずっと涙を流していて、由己子さんの強さと優しさを会うたびに思う。細い体で
いつも闘っているイメージで、、、またゆっくり飲みたい。今度は2本持ってくるからね。
翌日も綺麗なコーヒーカップで朝食もいただき小郡駅まで送っていただく。
福山まで戻り、光市伊保木の椿窯に行くのだ。
「伊保木フォークジャンボリー」が翌日にあってこの夜は主催者上田達生さんのお宅で前夜祭があるのだ。
フォークジャンボリーは前夜祭から始まる。
私が到着したら、ステージを組んでいる最中だったけれど、サウンドチェックをしておいたほうが良いということで、あっという間に夕方になった。
続々と出演者、スタッフの方々、そして何よりも一番大変な仕事をする奥さんたち!とにかく半端でない量の食事を二日間にわたって作り続けるのだ。
私が行ったときにはちょうど大きな鯖をさばいているときで、私はこういう大きな魚をやっつけたことがないから、上田さんや岡山の尾崎さんの奥さんや沢山の強き女性たちの包丁裁きを見学、その鯖を〆るというのでこれも見学。しめ鯖くらい自前でつくれるようになりたいもの。。。こういうお祭りではそういうことも教えてもらえることがある。特に料理は、つり方を教えてもらってから、家で飽きるほどそればかりつくったりする。
上田さんのお宅の前の道をはさんで少し小高くなった平らな場所がステージと客席になる。全てが手作りで、そのためにステージは組まれ、雑草は刈られる。
夕方からの前夜祭は採れたての魚、野菜、お寿司や、持ち寄りの品々、申し訳ないほどのご馳走。お祭りが始まった。
posted by よしだよしこ at 00:00| 日記

2010年02月22日

まだまだ続く2009年10月

二日ばかり久しぶりの我が家で休んでいたが、それまでの緊張はなかなか取れるものではなかった。
久しぶりに体と声のトレーニングでずいぶんと生命力がついた。体操もやはり一人で家でやったり旅先でするのとは違い、コーチと一緒にするほうがずっと良い。同じ事なのに、客観視してもらうことは大切だ。
この間にラジオ日本の収録「フォーク魂」という深夜の番組。ラジオ日本というのは以前はラジオ関東という名前だった。私がエレックレコードにいたころ一番出演した局だった。飯倉のビルの中は少しは新しくなっていたけれど昔の雰囲気が色濃く残っていて懐かしかった。収録といっても殆ど編集がないので嬉しい。沢山喋ったのにいざ本番を聴いてみるとがっかりすることもある。
時間が勝負だからしょうがないけれど、一番言いたかったことがカットされたりすると悔しい。それから最近は小さなコミュニティFMの番組に電話で生出演するというのもあるのだけれど、これはこれで緊張する。電話がかかってくるわけだから出られる状態で待っていなければならない。翌月に控えた宮崎のFMの電話出演をすっかり忘れていて、気がついたときはもう2時間近く過ぎていて頭が真っ白になったのだけれど、慌てて自分からかけてみたら、まだ番組は終わっていなくてギリギリセーフで話すことが出来たけれど、セッティングをしてくださった首藤さんやラジオ局の方々は本当に焦っていたことだと思う。それなのにいつもの話調子で「もしも〜し〜」という私のノンビリした声にスタジオの皆さんはひっくり返りそうだったそうで、ごめんなさい。
翌日も今度は山口の光市のフォークジャンボリーの出演者のために主催者の上田さんから朝の9時10分から電話でと言われて、もう失敗はしないぞ!と電話を前に正座して待っていた。あ〜よかった。

24日、25日は福井に行く。
ラクガキ屋のヒサさんのお店で唄う。土曜日の昼間、ヒサさんの友人やその子供達が集まってガラス張りのアトリエは道行く人も見えて私はこの場所で唄わせてもらうのが好きだ。処狭しと飾られた絵葉書やいろいろなものたち、旧いカメラのコレクションやもちろん子供達の遊び道具や絵もあって、居心地が満点だ。ヒサさんの王女様のそらちゃんは2年生になっていて、はじめて春一番の芝生の上で会った頃からは考えられないほど成長していた。でも自分を強くもっているそらちゃんは変わっていなくて、そして食べることがダイスキなところも変わっていなくて。この日は子供達がとても沢山集まったのだけれど
私が唄っているあいだはみんなずっと下を向いていて、静かなのは良いのだが
唄、聴いてくれているのかしら、、と思っていた。休憩をはさんで20曲。
気持ちの良い音は寺沢さんがつくってくれる。彼も音楽をされているが、いつもこういうときは一切裏方に徹してくださる。とにかく良い音なのだ。
2時間半の長いライヴになってしまったけれど、皆さん最後まで聴いてくださり、そして子供達は?といえば、私に一人ひとりライヴ中に一生懸命描いてくれたそれはそれは丁寧で綺麗な絵をプレゼントしてくれたのだ!
だから、みんなしたを向いていたのだ!それなのに私が唄っている絵などは髪型や服やギターの絃まで細かく描いてあったり、それぞれにメッセージがはいっていたり、嬉しかった!ライヴペインティングだ!
そらちゃんの絵の中には「よしこさんとおそば食べに行こうね」と書いてあって笑った。
いつもはラクガキ屋さんの中で手作りの打ち上げをしていただくのだが、この夜はヒサさん親子たちと近所にある越前蕎麦の美味しいちょっと不思議なマスターがやっているお店でお蕎麦を食べた。最後はドロドロのそばつゆに大きな梅干を入れてぐちゃぐちゃにして飲むのだが、これが美味しい。店内はジャズが真空管アンプを通して流れてくるし、遅い時間まで開いているお蕎麦屋さんは、夜はかなり飲み屋風で面白い。
食事の主導権はそらちゃんが握っているようで、この夜の終わりは満足満足だったようだ。
それにしても、いつもお友達やご近所さんに声をかけてくれて、ヒサさんありがとう。集まってくださった方々もありがとう。
ライヴの終わりに必ずヒサさんが挨拶をするのだが、今回も泣き虫だったね!
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やっぱり同じだった

レイチェル・ファロ帰国の朝、私は高校のクラス会に出席する予定があり、
レイチェルさんがホテルを出るまで小日向さんと少しビジネストークをしたいと言っていたのでお願いして、銀座の中華料理店のクラス会へ。
私は女子高に通っていたのだが、3年生の半分はまともに学校に行っていなかった。それはちょうどピピ&コットというバンドがエレックレコードからデビューしたときで、学校はよくぞ私に卒業証書を出しくれたと今になると思う。
それ以後私は学友との交流もなく、アメリカに渡って帰国した時に一番仲のよかったM子と会った。彼女はもう大学も卒業してそれから今も続く仕事のきっかけになる大手の園芸店でバリバリと働いていた。私の姿を見て「あ〜これはもう死ぬかも、、、」と思ったそうだ。それが長い間30年くらいのあいだ渡しが同窓会名簿の中で(不明)から(故人)になってしまった原因らしい。
ある日道で「あの、失礼ですけれど、、吉田さん?」とクラスメートだったKさんが声をかけてくれて「あなた故人になってるわよ!」と教えてくれたのだった。今の名簿をKさんからもらって何人かに電話をしてみたのは5〜6年前のことだった。いたずら電話かと思う人もいた。そりゃそうだ、私が死んだらしいと聞いて泣いたのよ!と言う人もいて、もちろんそれから数人の人たちに会って、いまでは時々コンサートに来てくれる友達もあった。
なかなか時間が合わずに行けなかったクラス会の幹事をしていた元気なグループが、11日のコンサートにやってきてくれて、「あなた来週のクラス会で唄いなさいよね!」と言うので、強行スケジュールだったけれど、ほんの1時間ほど出席して15人ほどが昼間から無礼講でまだお元気な当時の国語の先生を囲んで賑やかに食事をしているところで1っ曲唄った。今年90歳という先生から「とにかく体を大切にね、長生きして頂戴ね」。。。そりゃそうだ、死んだはずの人間だもの。。。

大急ぎでホテルに戻り、トナカイくんがビートルで迎えに来てくれて、レイチェルさんの荷物を積み込み、成田まで。
10日間の日本の旅が終わる。
トンネルのない道を選んでの帰り道はとっても早かった。私達はあまり会話もしないで静かに外を眺めながら、時々一緒に笑った事件や一緒に食べた食事のことや、ポツリポツリと話したが、あっというまに成田空港へ着いてしまった。
レイチェルさんはカートに全ての荷物を積み込み、車寄せからは一人で運ぶから、此処でお別れしようと言う。
私もそうなのだが、駅の改札や飛行場の中まで見送られると、その旅が楽しければたのしいほど、その人がダイスキなときほど辛くなる。
泣いてしまいそうになるときもあって、どうもいけない。。。。
「ありがとう」をお互いに言いながらこのときばかりは抱き合って「またすぐに会いましょうね」と言い合ったが、彼女はクルリと重いカートを押しながら
空港のロビーに向かって歩いていった。
私とトナカイくんも振り返らずに車に乗り込んだ。同じだな、見送り見送られる時。

レイチェルさんからメールが来たのは、それから一週間近く経ってからだった。
最高に楽しかったが、ものすごく重い時差ボケと疲れで静かにしていたらしい。
それもとてもよくわかる。さぞかし疲れただろう。。。。
でも、短いメールだったけれど、「日本に行って素晴らしく温かい人達に逢い、そして自分が忘れていたRACHEL FAROを思い出すことが出来たことが一番ありがたかった」とあった。
彼女も随分と長い間ツアーまでして唄ってはいなかったし、プロデューサーという仕事に夢中になっていたから、この日本という場所で待っていた人達や初めて聴いてくれた人達から沢山のことを気づき、自分が唄うということをあらためて考えたのかもしれない。

私にとってのこの10日間は、あまりにもめまぐるしく過ぎていったけれど、
常日頃のツアーとはまったく違うものだったし、数え切れない人達の支えがどれほど見に沁みて有難かったか〜どれもこれもアタフタとしながらでも無事故で終わったことに感謝しかない。
しかし、私には時差はないけれどやっぱり体は疲れていて、そして大変大きな課題も沢山もらって、10月の半分が終わった。

  「アリガトウ」は言うはやさしいけれど、いただいたものに応えることでしかないのだから。
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2009年10月12日から

10月11日の夜に翌日からの旅の為に持ちきれない荷物や楽器の一部を
小日向さんの車に積んでもらって、翌12日、レイチェルさんと私はお互いに大事なギターとレイチェルさんの子供が一人は入ってしまうような大きなトランク(私たちはこのケースを Sammy−sanUと呼ぶことにした)それは今回の旅でレイチェルさんと同行するかもしれなかったパーッカショニストのサミー・フィグエロアさんの持ち物であることと(パーカッションの人らしい大きなケース)彼が最後まで日本に来たがっていたから。新宿までタクシー、そして小田急ロマンスカーで小田原まで。レイチェルさんはこのロマンスカーというネーミングにかなりハマッていたけれど、問題はあのトンネル回避だ。しかし必ずトンネルはあったけれど、なんでも早い速度で走りぬけるのなら大丈夫らしくIpodのイヤホンから爆音が彼女の耳から漏れていた。
小田原にはこの夜唄わせてもらう鴨宮の「ジーズキャフェ」のオーナーのジョージさんとトナカイくんこと小島さんが2台の車で迎えに来てくれていた。
小田原の海を少し眺めて、レイチェルさんはホテルへ。
このツアーは東京を含めて4箇所。初日とはうって変わってライヴハウス。
ツアーを組む時にも随分考えた。ともあれジーズキャフェの皆さんが快く胸を貸してくださった。京都も神戸もヒトハダ・フタハダ脱いでくださった沢山の人達のおかげで道ができた。
あやさんという若い女性が通訳をしてくれるようにと取り計らってくださっていた。彼女はレイチェルさんのCDを聴いて用意していてくれた。
本番前もあやさんは緊張していて、それでも一生懸命に唄の意味などを説明してくれながらステージが進んだ。
ジーズキャフェならではの賑やかな空気の中で、前日とは違うリラックスしたステージであったし、レイチェルさんのレパートリーも変わっていた。ピアノがないから1部と2部の構成も私と半分ずつにした。1部は私も彼女もソロを多くして、2部は私の間に彼女とのデュエットを入れた。彼女の代表作の
「Refugees」のダブルダルシマも私がコード進行に慣れてきてコーラスが自然に出来た、それからジム・ペッパーの作品「Wititaito」も
急遽唄うことになった。私も好きな唄であるけれど、知っている人は少ないと思ったのでこれは私がお客さんに簡単に説明をした。ステージでのテンポが出てきた日だったと思う。特に曲の内容を説明するのはとても難しい。それでもあやさんに声をかけてくださったジーズのジョージさんの心遣いとあやさんの一生懸命に感謝する。満員の客席から小日向さんがカメラを回してくださっていた。音響席はステージが見えない一番奥なのでオペレーターのあたるクンも苦労したかもしれないが、このお店と集まったお客さんとともに良い瞬間がいくつもつくれたと思う。
スタートは7時からだったけれど、10時近くまでの長いライヴ、立ったままのお客さんには申し訳なかった。それでも皆さん最後までお付き合いいただいた。
終わってからの打ち上げはささやかに、いつも手料理を持ってきてくださる方や、ジョージさんのお父さん(オジィと呼ばせてもらっている)の持ってきてくださったアジのタタキなどとワイン。
私はこの住居兼お店の最上階のロフトで休ませてもらうことに。
トナカイくんがレイチェルさんをホテルへ。

翌朝、ジョージさんが小田原港の市場の食堂に私たちを連れて行ってくれて、
レイチェルさんは海鮮丼に満足したようだった。
ここからの移動が大問題だった。宅配便で送れるものはほんの少しだし、なんといってもサミーサンUを転がしながら中年女性二人が新幹線移動は無理だ。
なんと、トナカイくんが彼の愛車ビートルで運んでくれると言う!小島くんのことをトナカイくんと呼ぶようになったのは、はじめて出会った4年前に彼から「運転をするトナカイみたいな者です、、、」という挨拶から私も遠慮なくトナカイくんと呼ばせてもらっているけれど、京都までの道のりを東名、名神で走り続けるのだ。一足先に彼は車一杯の荷物を積んで出発。
一方新幹線では長いトンネルをレイチェルさんはパソコン仕事に没頭しながら、益々の爆音のイヤホンで耳を塞いでいた。
京都はちょうど秋の行楽シーズンで適当なホテルがなかなかとれなかった。
京都のライヴを受けてくださった佐々木さんもお手上げで、自分達で探すしかなかったので、私の叔母のツテで会員制のホテルを三日間予約することが出来た。しかし部屋に入ったとたんに大騒ぎだった。インターネットが使えないのだ!レイチェルさんはインターネットで毎日の連絡をする。特に電話はネット電話でなくては物凄い値段になってしまう。
どうしようもないときがあるのだ。ホテルを変えるつもりはなかった。だって
これだけ沢山の人たちに苦労してもらったのだもの。
彼女には気持ちを切り替えてもらうことにして、OFFの時間を夕食の後の散歩や、京都の地図で行きたいところを考えてもらって、自由に過ごしてもらうことにした。
スターバックスが此処かしこにあることがわかり、随分嬉しかったようだ。
やっぱりアメリカの匂いとアメリカのコーヒーの味で気分は落ち着くようだ。
14日<水)平日のライヴはお客さんに来てもらうのが大変だったと思うのに
会場のSomethingには50名以上のお客さんがやってきてくださった。
レイチェルさんの友人のエリザベスさんやそのまた友人の皆さんが最前列のテーブルにいてくれて、その中の一人の男性が素晴らしい唄の通訳をしてくださり、私は新しい唄ばかりでなく、河原町の灯りが大きな窓からユラユラと見える開放的なステージでウララスゥエで始まった1部では私の唄を中心に、2部はセッションを中心に、
京都らしいステージが出来上がったと思った。
お客さんは平日なので早く帰る人たちが多かったが、中心者の佐々木さん、渡辺さん(いつもお蕎麦をごちそうさまです)や、遠方から来てくださったお客さんと、お店の隅でお疲れさまをした。佐々木さんにはこの2年くらいの間に御世話になりっぱなしだ。
大阪からやってきてくれたホテルの件の叔母をステージの直前に紹介して(叔母は英文科だ、が、どういうわけかやっぱり知っている人ほど話さないの。。)ホテルのことを叔母が謝ったら、レイチェルさんも全てわかっていて
仲良く微笑みあっていたのが嬉しかった。身内孝行の少しでもと思いながら
この夜も日本土産一式とご祝儀を渡された。
夜、ホテルへの帰り際レイチェルさんは私に「素敵な叔母さんのいるヨシコはシアワセだ」と言ってくれた。しかしインターネット使えなかったから電話代が大変だとも言われた。。。。。
翌日はお休みの日。一日京都で過ごせる日。レイチェルさんは旅の間に何処で買ったのかバックパックを背負って朝から一人で京都を見物していて、私はいつも御世話になっているアコシャンのママに会いに行ったりで夕方まであっというまに時間が過ぎた。三条のスターバックスでレイチェルさんと友人のエリザベスさんと待ち合わせて、食事に行く。先斗町の料理屋さんで、在日の海外の人に日本料理やさんを紹介してもらったのは初めてだけれどもとても美味しくて値段も手ごろだった。
私達が先斗町で食事をしている頃、トナカイくんは一人京都の夜を過ごしていた。
翌日、神戸入り。新神戸の近くのホりディ・インに宿がとれた。これでネット問題は解決だ!
一休みして会場の饂飩やさん「な也」へ。
饂飩屋さんなのに毎月ライヴが行われている。オーナーの岡ちゃんの豪快な巨体がトレードマークみたいになっているけれど、とにかくお店の人たちが働く働く、そして美味しい。
ツアー最後のライヴ。この夜はあかべいこと赤木一孝さんがギターで応援に来てくださり、私の大阪の友達八巻くんもハモニカで参加ということで賑やかなファイナルになる。岡ちゃんがエレキピアノもセッテイングしていてくれて、
リハーサルをたっぷりしたかったのだけれど、かるく合わせてレイチェルさんはホテルにいったん帰る。この送迎もトナカイくんがしてくれた。
な也では出演者に豪華なお饂飩セットが賄われる。あかべいさん、八巻くん、
私で静かに本番前の控え室でズルズルという音が響く。
果たして本番のセッションはどうなるのかしら、、、、、私の唄う時間になってもレイチェルさんは来ない。。。でもここはトナカイくんありがとう、間に合った!Ohlalaを一緒に唄い彼女のソロと道ばたでおぼえた唄で一部終わり。
あかべえさんがしきりにレイチェルギターの絃を心配している。絃の張り方が逆廻りなのと、とても古いから、、、。でもそういう細かいことでないところで彼女はとてもお客さんの事も考えて曲目を咄嗟に決めたりした。
ピアノで唄う曲も自分で弾けるキーと唄えるキーは違うけれど敢えて挑戦するのだ!少し声が苦しくても唄いきる姿勢は私もあかべいさんも「凄いね」と共感してしまう。
「Witchitaito」も一緒に唄った。神戸では音楽詳しい人たちが随分来てくださっていて、レイチェルさんのMCの中で出てくるアーティストの名前などに反応する。 Wichitaitoは前に書いたようにジム・ペッパーというジャズのサックスプレイヤーでもあり作曲もしていた人でもあったのだけれど、バックボーンのほうが一人歩きしているような神話のようなものがある人のようだ。彼はネイティヴアメリカンのカウ族の血をひいていて、お酒、薬に溺れて夭逝したという話。この代表曲もそういうハイなときに創った曲などと言われているけれど、平和を祈る唄だと私は思い続けているし、この曲を知ったのはレイチェルさんのレコードのおかげだった。とても好きなのだ。ステージでレイチェルさんが「この曲はレコードに入れるつもりがなく、自分は娘の子守唄のつもりでうたっていた。プロデューサーのジョン・サイモンが録音するように勧めた」という話をした。そして私のほうを向いて、小声でといってもマイクがあるから聴こえた人には聴こえたから書いてしまうけれど「彼は昔、ボーイフレンドだった」って! そういう気さくな話も飛び出てきて、あかべいさん、八巻くん、それから通訳を少しだけれどしてくれたティム青年も反対に日本語の勉強みたいになってしまったけれどありがとう!
大阪からも応援団の皆さん、京都の佐々木さんも駆けつけてくださり、そして神戸の大好きな人達がお饂飩食べて美味しく飲んで、最後まで楽しんでもらえただろうか?レイチェルさんのCDはこの神戸で残り9枚ということになってしまって本人も驚いていたし、私もほっとした。
お店やステージを片付ける中で、神戸の友達や御世話になっている人たちと一緒にさっぱりとかけ饂飩をすするレイチェルさん。彼女だけが賄いを食べずにいたのだった。
たった4回のステージでもどんどん変わっていく。出来れば、このままもう一回東京でやれたらいいのになぁ、、と思った。ツアーの組み方も、準備の仕方も、全てがお客さんの前で演じる一瞬に繋がる大事な要素だ。これも全て新しいチカラにしよう。

東京に帰って一日休んでこのツアーは終わる。

鴨宮を出発したトナカイくんは神戸のライヴの途中で抜け出して、ひたすら東京に向かって夜走りをはじめていた。
ホリディ・インに帰ってからレイチェルさんに、トナカイくんには私達の個人的な気持ちで謝礼をしたいと言ったらば、彼女もそう考えていて嬉しくなった。

伊丹空港までは、八巻くんが運転をしてくださる。宣伝やお客さん集めに奔走してくれた眞城一家のところに途中挨拶に行く。
羽田に夕方着いたのだけれど、私はバスで新宿まで行きたかった。。。もうお分かりだろうが、トンネルが。。。二人とも疲れていたから、かなりの勢いで言い合いになったが、結局タクシー代をレイチェルさんが少し多めに払う、ということで決着がついた。タクシーの中でポツリと「アリガトウ、ヨシコ。あなた、この一週間で凄く英語が話せるようになったじゃない?素晴らしい!」と言われた。本当にそうおもう、初日にホテルが狭いことで話し合ったときと
さっきタクシー乗るで言い合った時とはまったく別人みたいに喋っていた。
しかし、もっと深い話がしたかったなぁ、、。でも語句は少なくてもずっと一緒に顔を見て話をすれば伝わることが殆どだ。

同じ日本人同士でも、最近は会って話すよりメールや、それよりももっと短いブログやもっと短いつぶやきのようなものでつながりを済ましてしまうことで
便利にはなったけれど、誤解や心ならずも人を傷つけてしまうこともある。
「短いコトバ」は簡単なようで難しいと思う。だから私は、こういう日記は長い文章になってしまう。短いときもあるけれど。。。。。。。。。。。。。。遠い昔、タイコの音で会話したり、のろしの煙や自然界の変化で気づきをした人達がいたのに。
しかし、音楽は伝達するツールにも成りうる。そしてやっぱり「短いコトバ」は難しい。

ともあれ、最初のホテルに帰ってみると、トナカイくんがきちんと荷物をホテルに届けておいてくれていた。さすがに心底疲れたでしょう、自宅で休んで明日は成田まで行ってくれると言う。

この最後の夜は、もと早稲田のジェリージェフのママであった加代子さんが有志を募ってささやかなプライヴェートパーティーをしてくださるということで
高田馬場の小さなスペイン居酒屋さんに集まった。レイチェルさんのファンの方や加代子さんが連絡してきてくれた人、初日に苦労させてしまった晴子さん、大野えりちゃん、それから中川五郎さん、など10人ほどで。特に五郎さんは仕事でライヴにこれなかったので加代子さんと連絡を取って来てもらった。それぞれにお喋りをして、ワインをいただき、でもやっぱりこれだけのメンバー、唄でしょ! というわけで五郎さんの訳したミー&ボビーマギー
を日本語や英語で歌いだし、Wichitaitoももの凄くハモって(えりちゃんの声)、ディランの唄もあって、この夜をそのまま映像にしたいわね、と誰もが思ったとおもうけれど、
そういうものなのだなぁ、、、。ホントに善いものを創るのは瞬間のための長い時間。
良い夜が終わって、私とレイチェルはホテルのとなりのAMPMで夜食を買って
最後のオヤスミナサイ。
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2010年02月21日

2009年新大久保R'Sアートコート

このホールでこうやって年に一度の東京での自分企画のコンサートを行うのはこれで二回目。2008年は「地球に似た惑星にいるあなたに」の発売記念ライヴということで、レコーディングメンバーの近藤達郎さん、松永孝義さん、永原元さん、そして大野えりさんという豪華なバンドスタイルでスタッフの方々も手弁当に近いかたちで、賑やかに、そしてお客さんも本当によくぞ来ていただいた!と、そらはそれははじめてのホールコンサートだった。
今回も「She said NO!」の発売に近い日を選び、初めはバンドのかたちにしようか、はたまた編成を小さくして、たとえばドラムだけとか、、いろいろ悩んだ。そこにレイチェルさんのスケジュールが重なって、それならば私自身は一人、そして彼女も一人、というとてもシンプルでしかしとても難しいプログラムを決めた。
私が何より初めにしなくてはいけない準備はその日にお客さんにきていただくこと。皆さん早くから予約していただいたり、10枚、20枚と友人の方々にチケットを売ってくださったりで、しかし当日まで無事故でその場にお客さんが集まってくださる事を祈りながらいた。さまざまなアクシデントもあったけれど、それも勉強だったし、主催が自分なのだから全ては自分の責任であることで、日常各地で主催してくださったり、企画してくださったり、お客さんに声をかけてくださる方々の苦労を改めて感謝した。
主催は自分でも、ひとつのコンサートはお客さんとそして陰で数え切れない人たちに支えられて出来上がる。
2回目のR'sアートコートのステージに上がった瞬間に、様々な想いが溢れてきた。照明のあたったステージからは客席が見えにくいのだけれど、そこには確かにそういう一人ひとりの想いが席を埋めているのがわかる。
「アリガトウよしだよしこウタウ」というタイトルのように唄わせてもらえばよかった。
一部は私一人で新しいアルバムの曲を中心に唄った。しかし、これはもう反省しても仕切れないのだが、二部でのレイチェルさんとの事やそれまでの実務や
その他諸々の人間関係の事などで、どうしても集中できないまま唄ってしまった曲があった。録音をしているということも意識してしまっていた。せっかくの「アリガトウ」なのに、自分のことで頭がいっぱいになってしまった瞬間が何度もあった。本当に申し訳ないと思えばおもうほどおかしくなるもので、
言い訳しないステージを心してきたくせに。。。。一部の最後には「今夜彼女は台所を棄てた」をやり直す始末。まだまだだ、ほんとにまだまだだな。
せっかくこんなに沢山の方々が集まってくださったのに、悔しかった。
しかし、考えている時間はなく二部がはじまった。私が「ライディングハイ」をダルシマで唄ってレイチェルさんを呼び込んだ。彼女は少し緊張気味だったけれど、それでも持ち前の声の響きとリズムは、彼女のファンの人たちには喜んでもらえたはずで、ただ通訳をお願いした朝倉晴子さんには、事前の打ち合わせが少なかったことで随分苦労をさせてしまった。二部は殆どレイチェルナンバーで、最後に私が「She said NO!」を唄って終わった。アンコールは決めていなかったのだけれど、咄嗟に私がレイチェルさんに「Water is wide??」と言ったら「OK!]ということでぶっつけ本番の英語と日本語のデュエットが出来た。これは嬉しかった!
彼女も100枚ほどの「Wind song」というアルバム(これは20年前に録音したレコードを最近リマスターしたもので、とても音が良く、私の唄っている「道ばたでおぼえた唄」と同じメロディーのDaggerDanceという曲も入っていて、ステージが終わってからは彼女のこのアルバムを沢山買ってくださった方々があってとても嬉しかった。それに加えて私自身のアルバムまで買ってくださる方が半分以上だったので、これは大変なこと!言葉にならない!
レイチェルさんを昔から聴いていた方々は当時のレコードを持って彼女のところで写真を撮ったり。そういうことが実現できたことは成功だったし、事故のようなことも起きないで大きな一日が終わった。

この日にしたことは、良いところも悪いところも含めてこの日の事であるから
とにかく翌日もあるツアーのために私とレイチェルさんは、打ち上げもせずにホテルに戻った。

ただ、毎年一度の東京のライヴは、やはり「よしだよしこ」の軸がぶれていてはお客さんに申し訳ないと、一人ホテルにてもう一度反省。。。。
しかし、私が誘わなければ多分こういう形のコンサートでレイチェル・ファロが唄うということは日本で無かったかもしれない。これは私の挑戦でもあった。
挑戦に伴うリスクも私が抱えて、新たな力にさせてもらうのだ。

ツアーの途中で遠方から来てくださった方と電話をした時に言われた。
映画「ソング・キャッチャー」のシーンを思い浮かべた。。と。
私のダイスキな映画のひとつだけれども、私もレイチェルさんも根っこに同じような「唄」の力を追い求め続けていく精神を大切にしていることだけは確かなことで、彼女の誠実さは言葉を超えてこの日会場に来てくださった方々に少しでも伝わったのなら幸いだ。

大きなコンサートを背負うだけのチカラをつけるぞ!
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Rachel Faroとの日々2009年10月

レイチェルさんと31年ぶりの再会は2009年8月、ニューヨークの彼女のお母さんのお宅であったけれど、再会というのは私の一方的な感覚であって、
私は1977年のグリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスのマイクを隔てての観客としてであって、彼女にとってはこのお母さんのお宅で私とはじめて会ったのだった。
そして、そのときの約束どおりレイチェルさんは日本に来た。長いフライトの後はまずは一人になってゆっくりとした時間が必要だ。私のように国内を移動していても、空港から駅から直接会場に入ってすぐに人と話し、すぐ唄うというのは近郊ならよくあるけれども、遠いところではまずホテルなり、どこかのお宅なりで一息するととても助かる。
一晩ゆっくりと成田のホテルで休んでもらって、東京に移動してもらう事にしていた。私は車を運転しないので、今回のコンサートの企画運営のお手伝いをしてくださるディーシー・フォルテの社長、小日向さんにお願いした。小日向さんは私の「地球に似た惑星にいるあなたに」と「She said NO!」2枚のアルバムの制作にも携わって下さった。そして心強かったのは小日向さんが
大学で英文科にいたという事。しかし!小日向さん「僕、筆記はOKだけれど喋るのイヤ」という。なんと!あてにしていたのに、、、。わかっている人ほどそうなのかもしれない。ともあれ成田ヒルトンの豪華なテラスでレイチェルさんを待っていると、ゆったりと、そして静かな微笑みで階上から降りてきた。
アメリカンな大げさな身振りも喋り方でもない、お互いに日本式にお辞儀の挨拶をしてお茶を飲んで、それでもやっぱり疲れているのはわかる。そしてものすごく大きなトランクとギターとバッグ。全てを積み込みいざ出発。彼女にとって20数年ぶりの日本の景色を車中から感慨深げに眺めていた。
そして大問題発生!「トンネルは通らないでね!」なんで〜?とにかく彼女は
閉所恐怖があって、狭いエレベーター、そして特にトンネルは死んでもゴメンなのだそうで、しかし首都高速道に入ったら必ずあるトンネル。。。。
汗をかく小日向さん。。。しかたなく途中で高速を降りる。無事に四谷のホテルに到着。ホテルでもエレベーターのチェック。彼女一人が階段を使う。
そして部屋へ。。「狭い、、、、」の一言。私の必死の説得。。ここが一番会場に近くて、値段のわりに良い部屋であること、私達のこれからのツアーは決して豪華には出来ないことを喋った。この夜は彼女一人になるので、明日早い時間から私もこのホテルに泊まってずっと一緒だから。。と納得してもらい
私は帰宅。
夜遅くレイチェルさんからのメール。「ホテルは気に入ったし、夕食は隣にあるAMPMでウドンを買って部屋で食べてとても落ち着いている、ありがとう。」
さすが!
翌日、私はこれから始まるツアーの全ての荷物を持ってホテルへ。
ゴキゲンのレイチェルさんとのリハーサルは彼女の部屋で。しかしリハというほどのものではなくて、曲目を決めて簡単に一緒に唄っただけ。明日本番だよ〜〜、でもお腹空いたよね、、ということで荒木町の小さな居酒屋ではじめての二人だけの食事。。。沈黙の時間が多いけれど、しょうがない、とにかく自分のプライヴェートなことなど話していくうちに、彼女もいろいろ話してくれた。少しずつ距離が近くなって冗談も出る。ガールズトークも出る!
明日の時間の確認をして<昼間のコンサートは入りが早い)オヤスミナサイ。
エレベーターは慣れたみたいで、「ヨシコの部屋も見せてよ」と言って同じサイズの部屋で納得。
翌日朝食のバイキングに和食があって歓んでいた。
さぁ、コンサート!一緒に会場のR'sアートコートに行きましょうね!と部屋から電話すると、私はゆっくりしたいから後で行く????誰がお迎えに??? しかしこれもよくわかる。彼女はゲストなのだから、長い時間ホールで過ごして本番疲れることを知っている。小日向さんにお迎えをお願いして
昼前に私のリハーサル。音響は前回も同じホールでお願いした加納厚さん。
私もレイチェルさんも全て楽器はマイク録りだから加納さんはマイクを沢山持ってきてくれた。特にダルシマにつける小さなコンデンサーマイクはとても私は気に入っている。レイチェルさんはピアノも弾くから、ホールの横尾さんはじめ照明の加納組(PAと照明さん同姓、当日は親方の加納さんは来れずに若い人たちが3人も!)の皆さんなど総出でピアノの移動
客席つくりが始まった。録音もするのでこれは「地球に似た、、」のときにマスタリングをしてもらった加藤さん。そして小日向さんが映像を撮る方々三名を頼んでくださり、プロフェッショナルの仕事に私は身を預けてサウンドチェックをゆったりと出来た。一人で唄うからチェックは早く終わったけれど、レイチェルさんがまだ来ない。開場まで一時間。。。。私はお化粧も終わり、お弁当を食べ始める頃、到着。彼女のリハーサルはあっというまだった。しかし
一緒に唄う曲もあるので私はちょっとハラハラ、、、。しかしこのレイチェルさんの余裕とOFFとONの切り替えは学ぶところ。決して手を抜いているわけではないし、緊張感ははっきりと伝わってくる。楽屋に大野えりちゃんがスターバックスのコーヒーを差し入れてくれる。スターバックスはインターナショナル。それはレイチェルさんにとってもホッとするアイテム。よりこちゃんも私の衣装着替えや気分転換のために付き添ってくれてレイチェルさんとも気軽に話してくれている。助かる、そうでなくてもホールの受付では今頃お客さんがそろそろ入り始めて全スタッフが戦争状態のはず。
この僅かだけれど凝縮された本番前の時間は、何度味わっても特別だ。もうベルが鳴ったらあったのかも忘れてしまうこの時間。
最初のベルが鳴る。小日向さんから大入りのことづけとともに二回目のベル。
スタバのコーヒーを飲んでいるレイチェルさんに「See You♪」
真っ暗なステージに上がる。
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2010年02月04日

2009年10月覚書その1

レイチェル・ファロの来日を目前にして、毎日が目の廻るような忙しさだった。それでも地元川崎のFMに行ったり、いろいろな人に会ったりと自分の家でゆっくりしていなかった。我が家は川崎の溝の口という駅が最寄り駅になっているのだけれど、そこからバスで混んでいたりすると30分くらいかかる。
それに終バスも10時過ぎで、都内で何かあると必ずタクシーを使ってしまうことになる。スッゴク悔しいけれど引っ越せないものなぁ、、その余裕がないんだなぁ、、。
話がずれてしまったけれど、そんな最中にタイコの永原元ちゃんからいただいたメロディーにコトバがやっとついた。これはデザイナー<私は絵描きさんと思っているのだけれど)のAKIくんの絵のイメージでCDと絵本が一緒になったような素晴らしい企画のアルバムを元ちゃんが初プロデュースではじめて、私も参加させてもらった。他にも素晴らしいアーティスト達ばかりが参加していて、でもどれもまだ聴いたこともなく、ただただ自分の課せられた歌詞をつくって歌うということをすることになった。
メロディーはいただいていたのだが、AKIのイメージする絵のそのまたデッサンのようなもので、タイトルのテーマが「雨」だった。
出来上がったメロディーに言葉をつけていくのは本当に難しい。自分の作品の殆どが、まず言葉ありき。。でやってきたから。
でも、イメージがあり、テーマがあり、そこに私自身の思いをかさねあわせていくという作業は新鮮だったし楽しかった。「さぁ、やろう」と便箋の前に座るまでに時間がかかったけれど、それはいつもの私のギリギリまでやれない性格がいけないので、座ってみたら、なんだか元ちゃんやAKIくんのように
すぅーっとコトバたちが雨のように降ってきてくれた。
それを今度は自分でメロディーにのせて唄ってみるのだけれど、KEYが凄く高い!フツウは唄う人のkEYに合わせるものだが、元ちゃんはすでにカラオケもつくってしまっていて、すでにそれをギターで弾く真中ヤスくんにも頼んでいて、そして練習を沢山するじかんもなかったのだけれど、録音の当日がきた。
埼玉の緑濃い住宅地の一室で、「さ、やりましょか」というこのラフな雰囲気に、忙しくてヘトヘトになっていた時期に、ふっと神様がくださったような、
楽しい「音つくり」の時間は、とってもリラックスさせてもらえて、自由に唄わせてもらえて、細胞が蘇ってくるようだった。
ありがたい貴重な時間だった。

後日、元ちゃんやAKIくんからもコトバを気に入ってもらえているのを知りまたまた嬉しくなったし、自分でもダイスキな唄になった。
はやくアルバムできないかな〜

秋の天気はずっと不安定だった。
10月9日、日本列島を大型台風が縦断した。レイチェルさんが成田に着く日だ。でも到着は夕方だし、台風は過ぎていってしまっているから、、、と思っていたけれど、アメリカン航空に問い合わせたら、数便の遅れがあるという。
欠航してはいないんだ、よかった!と思っていたし。その夜はレイチェルさんは一人で成田ヒルトンに泊まって体を休めることになっていたから、私は自宅で翌日からのツアーの用意や、新大久保の予約の確認や、まだまだ知っている人たちに「どうかお待ちしていますね」などということをしていたら、到着時刻を5時間以上過ぎて「Hi!This is RACHEL」というトーンの低い元気のない声の電話。しきりに台風台風と言っていて、なんでもケネディー空港で5時間も待たされたらしい。。。殆ど会話もなくとにかく「Goodnight,see you tomorrow...」で電話は切れた。
さぞかし疲れているのだろう。。。しかしともあれレイチェル無事来日。
さぁ、はじまるぞ!翌日は成田に迎えに行って、都内ホテルに移動。
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